江藤慎一が野球学校で教えていたこと 落合博満は「あいつほど練習した奴はいない」 イチローは「トップが残っているからええんや」 (3ページ目)
学校のほうは午前中が座学の授業で、江藤の人脈を活かして、幾人もの選手やOBが講義に来てくれた。サッカーの釜本邦茂や江藤の弟の省三、そして特筆すべきは、大リーグに挑戦し、夢破れて帰国した江夏豊がその2か月後に湯ヶ島まで来てくれたのである。江夏が講義したあとは、寮の赤電話の前に行列ができた。それぞれにわけがあって日本野球体育学校に入って来た選手たちが、親や親類、友人たちに感動を伝えるために殺到したのである。
天城ベースボールクラブとしての試合は、中央、国士舘といった東都の大学やスリーボンド、ヨークベニマルなどの社会人チームと行なわれた。竹峰はバッティングを活かすために外野に転向していたが、2年間プレーを続けると、ロッテ、阪神、阪急から、スカウトの打診があった。
江藤に「ドラフト外でも行きたいです」と伝えると、「あと1年待て。まだ全部は教えきっていない。体力がない。プロに入って終わりではない。そこで活躍してほしい」しかし、竹峰は急いだ。「今、行きたいんです」何度もかけあって許しをもらった。
こうして1988年、竹峰は奇しくも高校の後輩である谷繁元信(大洋入団)と同期のタイミングで阪神タイガースにドラフト外で入団した。日本野球体育学校のプロ入り第1号であった。
高校時代の監督から自宅に祝福の電話が入ったが、竹峰はがんとして受話器をあげようとしなかった。
阪神に入団すると、江藤が太平洋の監督時代に手塩にかけた真弓明信がことのほか、可愛がってくれた。
「真弓さんにもバッティングを教わったんですが、バットの始動のさせ方や、『ボールの下を叩いてバックスピンをかけろ』という点が江藤さんと同じでした。江夏さんが評論家でキャンプで来られたので、挨拶に行ったら、『ここはややこしい球団やけど頑張れよ』と言っていただきました」
しかし、竹峰のプロ生活は在籍2年で幕を閉じた。江藤の懸念していた体力不足が要因でもあった。先輩たちはキャンプでもアップで平気で3時間も基礎訓練を繰り返していた。思えば、日鉄二瀬の頃に濃人渉が江藤に「プロ入りは3年我慢しろ」と言ったのもこの体力強化が目的であった。たらればはないが、あと1年、竹峰が入団を遅らせていたら結果は変わっていたかもしれない。
「僕は、プロに入った段階でもう満足してしまっていたのかもしれません。理不尽な高校時代の監督をそこで見返すことができたからです。恩人の江藤さんの顔に泥を塗ってしまったのは、今でも申し訳なく思っています。退団した時は、報告をしたんですが。何も細かいことは言わずに、よう頑張ったなと励ましてくれました」
江藤は、矛盾や理不尽のなかで生きてきた選手、特に大学を中退した選手を大事にしていた。
「きつい寮生活に耐えかねて、大学をやめたら、野球をする場所がない時代に、続けたい人の受け皿になっていました。その後、広岡達朗さんが滋賀に野球学校(甲賀総合科学専門学校)を作りましたよね。亜細亜大学を中退した藤本(敦士)がそこから育ってプロになりましたけど、その前から江藤塾はそういう役目を果たしていました」
今、運送業を営む竹峰は少年野球を指導している。
「弱い指導者ほど、人を殴る。あれは絶対にだめですよ。若い選手が、監督の顔色を見て、サインひとつで動かされて、間違えると殴られて。そりゃあ野球人口も減りますよ。空き地で楽しかった頃を忘れています」
竹峰の息子は春から中学の硬式チームに入る。竹峰は、こんこんと理論で諭すようにしている。
(つづく)
\連載をまとめたものが1冊の本になります/
『江藤慎一とその時代 早すぎたスラッガー』
木村元彦著 2023年3月22日(水)発売 1760円 ぴあ
著者プロフィール
木村元彦 (きむら・ゆきひこ)
ジャーナリスト。ノンフィクションライター。愛知県出身。アジア、東欧などの民族問題を中心に取材・執筆活動を展開。『オシムの言葉』(集英社)は2005年度ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞し、40万部のベストセラーになった。ほかに『争うは本意ならねど』(集英社)、『徳は孤ならず』(小学館)など著書多数。ランコ・ポポヴィッチの半生を描いた『コソボ 苦闘する親米国家』(集英社インターナショナル)が2023年1月26日に刊行された。
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