江藤慎一が野球学校で教えていたこと 落合博満は「あいつほど練習した奴はいない」 イチローは「トップが残っているからええんや」 (2ページ目)
年が明け、学校には就職する、と伝えていたが、悶々とする時間が続いていた。そんなある日、親戚が新聞を一部持ってきた。そこには、日本野球体育学校、通称江藤塾の広告が載っていた。
竹峰の父は広告を見ながら言った。「もしもお前が高校の監督を見返したいんやったら、野球で見返すしかないぞ」それは、自分の力でプロになることではないか。竹峰は卒業前に乃木坂にあった江藤の事務所を訪ねて行った。
入校に際して、江藤との面談が行われた。開口一番、こう言われた。「うちはプロの養成所やないぞ」
竹峰は虚心坦懐、なぜここに来たのかを伝えた。野球が好きで甲子園に出場したくて越境入学までしたこと、寮生活をしてきたが酷い体罰にあって野球をずっと辞めようと思っていたこと、卒業したら野球を辞めるつもりであったが、やはり自分はまだプレーをしたいという気持ちに気がついたことなど、素直な気持ちを吐露した。
竹峰は世代的に江藤の現役時代は知らない。しかし、父から豪傑で知られたエピソードは聞いていたし、強面の風貌からも暴力や精神論を肯定されるのではないかと、内心恐れていた。「理不尽に殴られたと思ってもあとから感謝することが、必ずある。今の自分があるのは、あの時の鉄拳があったからと思える時がくる。それができないお前は弱いんだ」そんな言葉が返ってくるのではないか。しかし、違っていた。「バカバカしい。野球は暴力やない。野球は技術やぞ。技術を知って上達するんや。殴ったり、蹴ったりで上手くなるはずがないやないか。野球は根性やない」江藤はハナから、体罰を否定した。
竹峰は、身体の奥底に沈殿していた思いをしっかりと言語化してくれた人が目の前に現れたことに感動していた。「この人について行こう」入校を決めていた。別れ際、握手をした時の江藤の手のひらの大きさに驚いた。
竹峰は島根に戻ると、進路先のことは誰にも告げずに卒業式を済ませると、その足で湯ヶ島に向かい、日本野球体育学校の2期生として入寮した。
おりしもこの1986年に、同校のクラブチーム天城ベースボールクラブが社会人のクラブチームとして登録された。これで公式戦の参加が許された。
日本野球体育学校自体はまだ生徒数が23名で、学校法人申請基準の40名に達しておらず任意団体のままであったし、寮は古い旅館を改装ならぬ転用したもので、環境は劣悪と言えた。
しかし、竹峰はこのクラブチームで水を得た魚のように躍動した。江藤は寮でもグラウンドでも一切の暴力を禁じていた。ここで初めて野球の本当の技術を教わった。「フライは両手で取るな、片手で取れ」「打撃はヘッドを走らせろ」コーチの加藤和幸は、なぜそうするのかを、丁寧に論理立てて説明してくれた。
36年経って竹峰は振り返る。
「今、思えば、高校時代の監督は教える技術がなかったんですね。だから怒鳴っていた。僕は何ひとつとして教えてもらっていない。気分が悪いと言っては怒ったり、エラーをしたと言っては殴る。技術がわからない人は、ただ『前で打て、ボールを見ろ、正面で取れ』と言う。
江藤さんと加藤さんは、『キャッチボールでも片手で取れ』と言う。片手だと稼働する範囲が広くなるやろうと、そこまで丁寧に教えてくれました。バッティングも『細かいところはある程度のところまでいかないと教えられない』と言われながら、段階を踏んで指導してくれた。『手やなくて下半身からバットのヘッドを出すんや』と。
江藤さんはロッテ時代に落合(博満)さんを見て教えているんですよ。落合さんの話はよくしていました。『あいつほど、練習した奴はいない』と。たまたまYouTubeを見ていたら、ある中日の選手が教えて下さいと落合監督に言ったら、『振れ!』と言われてスイングを4時間ひたすらして、それを観察されていたという。その教え方は江藤さんと一緒なんです。『スイング見て下さい』と言うと、ずーっと振らされる。へとへとになると『OK、それやで。それを忘れるなよ』と言われて終わる。続けるとヘッドを走る感覚がわかるんです。
僕は江藤塾で目から鱗の連続でした。イチローは出始めの頃に、振り子打法であんなに頭が前に行っていたらあかんと評論家が言うなか、江藤さんは、トップが残っているから突っ込んでもええんや、と言うてました。技術論がとにかく論理的でした」
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