元阪神・中込伸にとって92年とは?「あの1年があったから台湾でプレーできたし、今も商売を続けられている」 (4ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki
  • photo by Sankei Visual

 そして10月9日の中日戦、阪神は0対1で敗れた。これで残り2試合、ヤクルト戦に連勝してプレーオフに持ち込むしかなくなった。

 10月10日のヤクルト戦、中村監督から「総動員でいく」と通達され、中込もベンチ入りした。だが2対5で敗れ、ヤクルトが優勝を決めた。結局、その日は中込の登板はなく、翌11日の最終戦に先発した仲田のあと、6回からマウンドに上がった。

「『嫌やなあ、もう決まってんのに』と思っていきました。結局、リーグ2位で防御率のタイトルも獲れなくて。それもやっぱり、普段の行ないが悪いからですね。その年は前半戦で勝たしてもらって、だいぶ調子に乗っちゃった、ということです」

 92年の中込は9勝8敗、200回1/3を投げて防御率2.42。翌年も先発で健闘したが、その後は2度の右ヒジ手術もあり、結果を出せずに2001年限りで阪神を退団。台湾球界に活路を見出し、監督も務めたが、八百長事件に巻き込まれて11年に帰国。甲子園球場の近くで焼肉店を経営して11年が経つ。中込の人生にとって、1992年はどういう年だったのか。

「あの盛り上がりがあったから、台湾もあって、この店も"中込"っていう名前である程度、商売できている。92年がなくて、ずっと暗黒の時代のままだったら、『中込? 誰やねん』ってなってたと思う。だから、いい思い出ですし、もしも優勝してたら、僕もメジャーで投げてたかもしれない(笑)。でも、普段の行ないの悪さでダメでしょうね」

(=敬称略)

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