衝撃の1対4トレード。牛島和彦は深夜2時に星野仙一から「ネクタイして待ってるから家に来い」と呼び出された (3ページ目)

  • 長谷川晶一●文 text by Hasegawa Shoichi
  • photo by Sano Miki

── 村田さんの200勝達成の陰には牛島さんの存在も大きかったんですね。

牛島 たぶん、残り30勝のうち13勝、14勝はクローザーとして貢献していると思いますよ。89年に村田さんは200勝を達成するんですけど、この年、僕は先発に転向していたんです。でも、「オレが先発する時は、おまえもベンチに入れ」って言われたこともありましたね。「僕、先発ですから無理です」って断りましたけど(笑)。

満足はないけど、納得の14年間

── ロッテ時代は、最初はクローザーとして活躍し、87年には最優秀救援投手のタイトルを獲得。89年からは先発に転向して、この年は12勝5敗という好成績も記録しました。

牛島 クローザーとして2年間、成績を残していたんですけど、有藤通世監督が「精神的にもうしんどいだろう? 先発をやってみるか?」と声をかけてくれました。僕としても野球人として「こいつは短いイニングはいいけど、長いイニングは投げられないんだ」と思われるのはイヤだったし、当時28歳で「ラストチャンスだ」という思いもあったので、先発転向は迷いなく受け入れられました。

── クローザーからの先発転向。スムーズに移行できましたか?

牛島 この年の前半は「打たれたらダメだ」という思いが強すぎて、クローザー時代のようにキッチキチのピッチングをしていて、4月に1勝3敗だったのかな? 全然ダメだったんです。でも、「これじゃあ、もたないぞ」と気づいてからは、高校時代のような省エネ投法に変えたら、結果が出始めて6月に4完投で4勝、月間MVPをもらったんです。そこからは調子がよかったですね。

── この年は「あと1勝」で、最高勝率のタイトル獲得も目前に控えていましたが、登板回避によりタイトル奪取はなりませんでした。故障の影響ですか?

牛島 故障ですね。先発として9勝して、10勝目がかかった試合が北海道の釧路であったんです。ものすごく寒くていっぱい着込んで投げていたら腕が上がらない。その影響もあって血豆ができて潰れちゃったんです。「もう投げられないので代えてください」と言ったら、「ほかに投げられるヤツはおらん」と言われて、続投することになりました。

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