イチローより上位で指名された元野手も。中日・根尾昂の転向で思い出す、野手→投手に挑んだ男たち (2ページ目)

  • 白鳥純一●文 text by Shiratori Junichi
  • photo by Sankei Visual

 その後、かつての恩師・吉田義男監督が復帰した阪神の入団テストを受けて合格。当初は野手としてチームに加入したものの、首脳陣の意向もあって投手への再転向が決定した。

 古巣復帰1年目の1998年は、最下位に低迷するチームの中で防御率7点台、11試合の登板に終わったものの、野村克也氏が監督に就任した1999年に転機を迎えた。この年にサイドスローに転向し、中継ぎとして63試合に登板。巨人の松井秀喜を13打数無安打に抑えて"松井キラー"と呼ばれるなど活躍し、カムバック賞も受賞した。

 野手を経験したことで肩の痛みが癒えたという遠山は、この年から3年連続で50試合以上に登板。2000年には右サイドスローの葛西稔と、投手、一塁の守備を交互に務める「遠山・葛西スペシャル」も大きな話題になった。腰痛の悪化で2002年に現役を引退するも、ファンの記憶に残る投手となった。

【仰木彬によって投手に転向した3人】

 1994年にオリックス・ブルーウェーブの監督に就任した仰木彬氏は、チームを2度のリーグ優勝と日本一に導く中で、3人の野手を投手に転向させている。

 1人目は、高校通算52本塁打、北陽高校を春・夏の甲子園大会出場に導き、1994年にドラフト1位でオリックスに入団した嘉㔟敏弘だ。

 野手として思うような成績が残せずにいた1997年、外野手登録ながら2試合に登板。2000年には21試合に登板してプロ入り初勝利もマークした。登録が投手に変更された翌2001年には、リーグ最多の70試合に登板して防御率3.21、2勝を挙げた。

 2002年にも33試合に登板するなど、チームの屋台骨を支えた。投手と野手を兼任した期間はわずかだったが、大谷翔平(現ロサンゼルス・エンゼルス)が活躍する前に、NPBで二刀流に挑戦した選手としても知られている。

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