元オリックス川口知哉が明かす高校時代のビッグマウス発言の真相。「思っていることを正直に口にしただけ......」

  • 谷上史朗●文 text by Tanigami Shiro
  • photo by Sankei Visual,Tanigami Shiro

川口知哉インタビュー 前編

後編:「ドラ1左腕・川口知哉はなぜプロで通用しなかったのか」はこちら>>

 1997年は川口知哉の夏だった。低迷が続いていた平安(現・龍谷大平安)を春夏連続の甲子園へ導き、センバツ8強に続き、夏は準優勝。とくに夏は、6試合すべてを投げきり、3回戦以降は4連投。この大会で川口が投げた820球は、2006年夏に斎藤佑樹(早稲田実業)が抜くまでの大会最多だった。左腕から大きな弧を描いて決まったカーブ。内外へしっかり制球されたストレート。涼しげな目元には強烈な負けん気が宿り、じつに甲子園のマウンドが似合うエースだった。そんな川口が今春からコーチとして母校のグラウンドに戻ってきた。ピッチングだけでなくビッグマウスでも注目を集めたあの夏から25年、川口知哉は何を思うのか。

平安のエースとして1997年夏の甲子園で準優勝を果たした川口知哉平安のエースとして1997年夏の甲子園で準優勝を果たした川口知哉この記事に関連する写真を見る

母校コーチ就任の経緯

── コーチ就任の経緯を教えて下さい。

「女子プロ野球の運営状況が厳しくなり、最後には選手も3人に。思うように野球も試合もできなくなり、僕がチームや会社に残る意味がないなと思って、原田(英彦)監督に相談させていただいたら、平安に戻ってこいと」

── あの夏から数えると25年になります。

「高校野球の指導者として右も左もわからない状況で、ドンと構えるのも違うと思うし、かといって『新米です』っていうのも違う気がして。しばらくは落ち着かなかったですね」

── 春の京都大会の1次戦では、ひざの手術をした原田監督に代わって代行監督として采配も振るったと聞きました。

「ユニフォームを着ての公式戦ですから、あらためて気持ちが引き締まりました。そのあと、智辨和歌山と練習試合をした時もベンチに入って2試合戦いました」

── 25年前の夏の甲子園決勝の再戦ですね。

「結果は連敗で、しかも1試合目のスコアが3対6。25年前と同じスコアで敗れて、試合後、(智辨和歌山監督の)中谷(仁)にも『トラウマになるわ』って言いましたけど(笑)。久しぶりにいろいろな話ができて懐かしかったです」

── 25年の間に高校野球も変化し、投手を取り巻く環境も大きく変わりました。

「今なら4連投も820球も大騒ぎですね」

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