アゴを肩に乗せてホームランを打つ。長池徳士の武骨な打撃フォーム (2ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki

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 何しろプロ14年間で通算338本塁打、969打点を記録し、本塁打王3回、打点王3回、MVPを2回獲得した名選手。パ・リーグ記録の32試合連続安打も達成している。まして、引退後は5球団でコーチを務めた方だけに、著書があって当然とも思えるが、それもないのは何故か──。そんな興味も持ちながらインタビューを申し込んだ。

 取材場所は兵庫・宝塚市の阪急線沿線、宝塚大劇場から程近いホテル。約束の午後2時より15分早く着いたが、年配の観光客で混み合うロビーに鮮やかなチェリーピンクのシャツがひときわ目立っていた。待合席で携帯電話に視線を落とすその人が長池さんで、歩み寄ると僕の電話の着信音が鳴った。

 パッとこちらを見て立ち上がった長池さんは、「今ちょうど電話したところです」と言って笑った。上背はあまりないものの、肩幅広くがっしりとした体格。67歳という年齢(当時)を感じるのは白髪まじりの頭髪だけで、自然光がふんだんに入り込むカフェレストラン、窓際の席で面と向かうと、引き締まった風貌が余計に若く見えた。

 取材主旨を説明し、高校時代にエースで4番だった話から切り出すと、長池さんは身を乗り出し、ピッと背筋を伸ばして言った。

「当時はピッチャーでしたね。それで甲子園、センバツに出たのは柴田勲の法政二高が優勝したとき。昭和36年ですか。そのとき僕、選手宣誓をやったんですよ」

 エースで4番で、キャプテンでもあった長池さん。それにしても、甲子園で選手宣誓を経験したプロ野球選手、あまり聞いたことがない。

「数少ないと思います。大変光栄だったですねえ。今思えば、なかなかできないことで」

 徳島出身の長池さんは2歳年上の兄の影響で野球を始め、その兄が野球部のキャプテンを務める撫養(むや)高(現・鳴門渦潮高)に進学。1年時の秋に野手から投手に転向し、センバツ出場を契機に南海(現・ソフトバンク)のスカウトの目に留まることになる。当時の鶴岡一人監督にも直に誘いを受けたという。

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