失明の危機も「投げてくれんか」。カープ初優勝のスーパーマン投手

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki

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「令和に語る、昭和プロ野球の仕事人」 第18回 金城基泰・後編 (前編から読む>>)

「昭和プロ野球人」の貴重な過去のインタビュー素材を発掘し、その真髄に迫る人気シリーズ。当時の個性的な選手たちのなかでも、とりわけ金城基泰(かねしろ もとやす)さんの美しいアンダースローの投球フォームは唯一無二で、今も目に焼き付いているファンも多いだろう。

 1974年シーズンに20勝を挙げてブレイクした金城さんは、その直後、とんでもない悲劇に見舞われてしまう。野球どころか、日常生活への復帰すら危ぶまれる危機的状況──。その失意のなかから奇跡的な復活をとげて、歴史的なカープ初優勝へとつながっていく過程が明かされる。

カープ初優勝、水沼捕手と抱き合う金城さん(左から2人目)にシェーンらが駆け寄る(写真=共同通信)カープ初優勝、水沼捕手と抱き合う金城さん(左から2人目)にシェーンらが駆け寄る(写真=共同通信)

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 フォーム自体が武器だったと言える金城さんはプロ1年目、二軍で英才教育を受けた。地元の広陵高出身で甲子園のスターだった同期のドラフト1位右腕、佐伯和司と同様に期待された。「一軍のバッターを真っすぐで押し込めないような投手は先発ローテーションに入れない」という指導方針のもと、二軍戦では勝敗関係なく真っすぐ一本のピッチングに徹することもあった。

 そうして2年目の72年には、「この試合、抑えたら一軍」という機会も増え、5月に昇格して救援でプロ初登板。8月の阪神戦で初先発を果たして初勝利を挙げた。

「チームは最下位やったから、若手を育てる余裕ありますよね。見切り発車で上げてもらって、たまたま勝ってしもうたんですけど、その1勝で目の前がパッと明るくなって、野球に対する意識もちょっと変わりましたね。その年は3勝3敗で終わったんですけど、一応、プロの選手になれたかなと」

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