監督に暴行、教師を妊娠...ネットでのデマ、中傷に負けず泉正義が野球を続ける理由 (3ページ目)
2014年に日光ヤングスワローズを設立した泉正義 宇都宮学園に進んだ泉は、いきなり1年夏の甲子園に出場。2学年上の片岡保幸(治大/巨人二軍内野守備・走塁コーチ)らと戦い、全国舞台で鮮烈なデビューを飾った。
だが、そこから泉は長い休眠期間に入ってしまう。「甲子園で自分が取られた1点のせいで負けてしまった」という罪悪感。3年生との充実した野球が終わってしまった虚脱感。そして、右肩に痛みが走り始め「自分のボールが投げられない」という焦燥感。泉は野球部の練習はおろか、学校にも行かない日々を送った。
手を差しのべてくれたのは、またも星野だった。
「僕が休部した期間、星野先生はあきらめずに課題をつくってくれて、学校にかけ合って首の皮一枚つないでくれたんです。2月には巨人のキャンプに連れていってくれて、一緒に長嶋茂雄監督のノックを見ていました」
野球への情熱を取り戻した泉は、野球部に復帰する。その後は甲子園に出場できなかったものの、3年秋にはドラフト会議でヤクルトから4巡目指名を受けた。
プロ入り後、宮崎・西都でのキャンプに、星野が新婚旅行で泉を訪ねてくれた。泉は「星野先生は今でも『宮崎の焼酎が俺の思い出の味だよ』と言ってくれるんです」とうれしそうに話した。
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プロでは右肩痛が治らず、わずか3年で戦力外通告を受けた。その後は配管工として働き、横浜でジュニア世代の野球指導者として活動した。指導者になった理由は、星野から受けた影響だった。
「星野先生のように、選手が困っている時、つらい時に僕が支えになりたいんです」
2014年には栃木県に日光ヤングスワローズを設立。当時、文星芸大付の監督を務めていた星野のために、自分が育てた選手を進学させたいという動機だった。
「なぜ宇都宮ではなく、日光なのか?」と問うと、泉は「僕は戦国武将が好きなんですけど」と前置きして大真面目にこう続けた。
「日光には徳川家康がいるじゃないですか。『だから日光がいい』と決めたんです。毎年、正月には選手たちと東照宮をお参りして家康さんにご挨拶してから練習を始めるんです」
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