球界で光った個性派のメガネ戦士たち。
「大成しない」のジンクスを打ち破る
10月26日、2020年のドラフト会議が行なわれ、新たに123選手(支配下74名、育成選手49名)が、プロ球団との交渉権を獲得した。さまざまな表情で記者会見をする選手たちが印象的だったが、ふと気づいたのは、メガネをかけた選手がいなかったことだ。
近年は減少傾向にあるが、プロ野球では過去に多くの"メガネ選手"が活躍してきた。多くのファンが最初に思い浮かべるのは、ヤクルトに在籍した古田敦也だろう。
野村克也監督(左)に鍛えられ、メガネでも捕手として大成した古田(右) 1989年のドラフト2位でプロ入りした古田は、野村克也監督が率いるヤクルトの正捕手として活躍。「I D野球の申し子」としてチームの黄金時代を支え、2005年には2000本安打を達成して名球会入りも果たした。
古田は立命館大学時代、受験勉強による乱視の悪化でメガネを着用し始めた。1980年代中頃はコンタクトレンズ技術の黎明期で、乱視矯正はハードレンズに限られていた。そのため、自身の眼球に合うコンタクトが見つけられなかった古田は、やむを得ずメガネをかけてプレーするようになった。
だが、古田が活躍する前のプロ野球では、「メガネをかけている選手は大成しない」というジンクスが定着していた。1980年代から90年代初頭にかけて、広島の正捕手だった達川光男もそのジンクスを恐れ、当時は高額だったコンタクトレンズを使用していたという。
そんな時代背景もあり、古田は大学日本代表に選出されるほどの選手になったものの、大学4年時(1987年)のドラフト会議では「メガネの着用」を理由に指名を回避された。しかしそれに奮起した古田は、トヨタ自動車に入社してソウル五輪の銀メダル獲得に貢献。2度目のドラフト会議でヤクルトに入団し、ジンクスを見事に覆して球界を代表する捕手になった。
1 / 4