門田博光が本気で探す後継者。「王貞治を超えるバッターを育てたい」 (4ページ目)

  • 谷上史朗●文 text by Tanigami Shiro
  • photo by Sankei Visual

 球団には専属のコーチがおり、外部の人間が所属選手に対して技術的な指導をすることは普通ありえない。

 また、ある年のオフにはNPBを自由契約になったスラッガーから、共通の知人を通じてマンツーマン指導の相談が来たが、これも実現には至らなかった。この時は本人と門田が直接やりとりをするまで話は進んだが、最後の最後で立ち消えになってしまった。

 大まかな経緯を聞いて思ったことは、門田と組むなら、独特の打撃論や強烈すぎる個性を盲目的に信じることができなければ良好な関係は築けないということだ。

 ちょうどその頃、「もうワシの出番はないわ」という弱音を聞いたことがあったが、情熱の炎はまだ消えていなかった。今年2月に72歳になった門田は、こんなことを語っていた。

「国のトップ同士の赤電話みたいなものがあったらええのにな。トランプ(大統領)と安倍(晋三/首相)がよくやりとりしている直通電話や。オレが家から電話を入れて、気づいたことを選手に直接言うんや。12球団に1台ずつ通じる電話があって、こっちからは広報にコンタクトを取れば、あとは選手と話し放題。おもろいと思わんか? 今の時代、みんなええ体しとるし、パワーと技術を持ったヤツもようけおる。その気になったら40から50発打てるようになりそうなのがおるのに......もったいないわ」

 12球団を見渡すと、門田がうらやむ選手を見つけることは難しくない。ただ、高校時代まで本塁打0本。プロ入団時のサイズも170センチ、70キロちょっとだった男が球史に残るホームランアーチストに上り詰めた最大の理由は「志」にある。門田博光になりえるかどうかの分岐点はここにあるのだ。

「そうや、そこなんや。この10数年でわかったことは、ナンバーワン(王貞治)を超えようとする志を持ったヤツがおらんということ。それがわかってしもうたんや」

 断ち切れない未練に引きずられながら、今年もまた何事もない1年が過ぎようとしている。

つづく

(=敬称略)

プロフィール
門田博光(かどた・ひろみつ)/1948年2月26日生まれ。天理高からクラレ岡山を経て、1970年にドラフト2位で南海に入団。2年目の71年に打点王を獲得。79年のキャンプでアキレス腱を断裂するも、翌年に復帰。81年には44本塁打を放ち、初の本塁打王に輝く。40歳の88年に本塁打王、打点王の二冠を獲得。その後、89年にオリックス、91年にダイエーでプレーし、92年限りで現役を引退。2006年に野球殿堂入りを果たした。通算成績は2571試合、2566安打、567本塁打、1678打点。

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