勝利数「歴代2位」の投手は、320勝のライバルと競って勝ち続けた

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki

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「令和に語る、昭和プロ野球の仕事人」 第10回 米田哲也・前編 (第1回から読む>>)

 平成の頃から、どこかセピア色に映っていた「昭和」。いまや時代は令和に変わり、昭和の記憶は薄れていくばかりだ。しかし、当時のプロ野球には個性あふれる選手たちが大勢いて、ファンを楽しませてくれたことを忘れてはならない。

「昭和プロ野球人」の過去の貴重なインタビュー素材を発掘し、その真髄に迫るシリーズの10人目は、日本プロ野球歴代2位となる350勝をマークした米田哲也さん。球史に名を刻む偉大な投手は何を思いながら、この気の遠くなるような数字を積み上げていったのだろうか。

マウンドに仁王立ちする阪急時代の米田哲也(1968年)。この年は29勝(写真=共同通信)マウンドに仁王立ちする阪急時代の米田哲也(1968年)。この年は29勝(写真=共同通信)
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 米田哲也さんに会いに行ったのは2005年11月。学生野球資格回復制度がある今と違って、プロ野球OBによる高校生の指導がまだ難しかった頃のことだ。ある新聞記事のなかに米田さんの名前を見つけ、その内容に触発されたのだった。

 記事が伝えていたのは、同年2月から解禁になったプロOBによる高校生の一時指導。7月に北海道からスタートした技術講習会が続いて岩手で開催され、11月5日に兵庫で行なわれた講習会に米田さんが参加したという。

 昭和30年代から50年代にかけて活躍し、歴代2位の通算350勝を挙げたことで知られる大投手。果たして、その目に、現代の球児たちの姿はどう映ったのだろうか。そして、米田さん自身、どのような投手人生を歩んできたのだろうか。

 1956年、鳥取・境高から阪急(現・オリックス)に入団した米田さんは、プロ1年目からいきなり51試合に登板して9勝を挙げた。2年目には一気に21勝をマークすると、翌年も23勝を挙げてエースの座にのし上がっている。

 以後、68年の29勝をピークに、シーズン20勝以上が8回あり、阪神に途中移籍した75年まで19年連続で二桁勝利を達成。最晩年は近鉄でプレーし、実働22年で積み上げた勝ち星が350勝という、とてつもない記録だった。

 350勝は金田正一(元・国鉄ほか)の400勝に次ぐ勝利数で、奪三振、投球回数も同じく金田に次ぐ歴代2位なのだが、登板試合数949は歴代1位の記録(当時/2017年に中日・岩瀬仁紀が更新し、2018年に1002試合登板まで記録を伸ばした)。

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