【イップスの深層】赤星憲広が送球難の沼に引きずり込まれたある事件 (2ページ目)

  • 菊地高弘●文 text by Kikuchi Takahiro
  • photo by Kyodo News

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「井端さんがいたから、ドラゴンズの選手はみんな僕の弱みを知っていたと思うんです。とくに落合博満監督の時はチーム全体がスキのない野球をやっていたので、常に次の塁を狙ってきました」

 9年間の太く短い現役生活で、ゴールデングラブ賞を受賞すること6回。名手のイメージが強い赤星が送球に苦しんでいたことを、どれだけのファンが知っていたのだろうか。

 今でこそ、赤星は当時の自分を「イップスだった」と振り返る。だが、現役時代はかたくなに「自分はイップスではない」と言い張ってきた。

「野球をやめた今だから言える話ですよ。当時は絶対に認めたくないという気持ちがありました。とくにアマチュア時代は『オレは違う』とずっと思っていましたね」

 かつての赤星は内野手にこだわりを持ち続けていた。少年時代は立浪和義(元中日)に憧れた。

「PL学園時代の立浪さんの、打球を捕ってから投げるまでの一連の動きを見て、『こんな選手になりたい』と思っていました。小さい頃から立浪さんのイメージを頭に浮かべて練習をやっていました。だからやれるなら、ずっとショートをやりたいという思いは強かったですよ」

 大府(愛知)ではセカンドとして2年春、ショートとして3年春に甲子園(選抜大会)に出場する。順風満帆に見えた歩みに影を落としたのは3年春の出来事だった。

 甲子園球場という晴れ舞台での名門・横浜(神奈川)との一戦。立ち上がりに三遊間寄りの平凡なゴロを捕球した赤星は、送球する際に今までにない違和感を覚える。

「緊張していたからなのか、なんなのかは今でもわからないんですけど、初めて球が抜ける感覚があったんです」

 指にしっかりとかからなかった送球は長身の一塁手が差し出したミットのはるか上を通過し、カメラマン席へと飛び込んだ。そのタイムリーエラーを契機に大府は失点を重ね、ワンサイドゲームになった。その前年にも赤星は甲子園で捕球エラーを犯しており、2年連続の失態の責任を背負い込んだ。

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