昭和プロ野球のレジェンド・八重樫幸雄が振り返る「名将の魔術」

  • 長谷川晶一●取材・文 text by Hasegawa Shoichi
  • photo by Sankei Visual

連載第2回

【軍隊式の「別所野球」から、三原脩流「大人の野球」へ】

――前回の連載第1回目「八重樫伝説」は大好評でした。今回からは、ヤクルトひと筋47年の八重樫さんが間近で見てきた「歴代名将」たちについて、集中的に伺っていこうと思います。

八重樫 僕がプロ入りした1970(昭和45)年は別所毅彦さんが監督で、このシーズン途中からは小川善治さん。そしてプロ2年目の1971年からは三原脩さん、続いて荒川博さん、廣岡達朗さん......と続いていくんだけど。みなさん、それぞれ個性的な監督だったよ。

――「魔術師」とか、「三原マジック」と称された三原脩さんと八重樫さんは、1971年から1973年まで3年間一緒に過ごされていますね。三原さんはどんな方だったのですか?

八重樫 プロに入った時の別所さんが、とても厳しい監督だったんだよね。キャンプの時には軍歌を流しながらの練習で、まさに軍隊式の統率を目指していたんだと思うけど、三原さんは正反対の性格で、「好々爺」という表現がピッタリの方だったという印象が強いかな。あまり口やかましいことは言わずに、選手たちを大人扱いしていた監督だよね。

ヤクルトなど、5球団で指揮を執った三原脩ヤクルトなど、5球団で指揮を執った三原脩――八重樫さんはまだプロ2年目、20歳を迎える時期でしたが、「怖さ」「厳しさ」はあまり感じなかったんですか?

八重樫 プロ2年目の僕に対しても、決して呼び捨てせずに「八重樫くん」と呼んでいたのが印象に残っているけど、「怖さ」や「厳しさ」はもちろん感じましたよ。でも、それはまた違った意味での「怖さ」「厳しさ」なんだ。細かいことは言わずに、選手を大人扱いする代わりに、じっと黙ったまま選手たちのことをしっかり見ていた。怠慢プレーや手を抜いた態度をとると、すぐに二軍に落としたり、スタメンから外されたりするような「怖さ」「厳しさ」は当然、ありましたよ。

――三原さんが監督に就任する前年、1970年のヤクルトアトムズは33勝92敗5分、勝率は.264で、圧倒的な最下位でした。「チーム再建」を託されての三原監督就任でしたが、三原さんはどのようにしてチームを変えていこうとしていたんですか?

八重樫 あの頃は、松岡(弘)さんもまだ若手だったし、浅野(啓司)さん、石岡(康三)さんなど、ピッチャーはそれなりに揃っていたんだけど、打撃陣が手薄だったんだ。だから、若手を積極的に育てながら「打撃強化」を意識されていたと思いますよ。僕も打撃を生かすためにキャッチャーから内野へコンバートされたんだから。それで、セカンド、ショートの練習を続けたんだよね。僕は足も速かったからね。

――現役晩年のイメージが強烈すぎて、「足が速い」というのは、正直なところまったく想像できないんですが......。

八重樫 ホントに速かったんだよ。当時は身長178cm、体重は80kg前後で、自分でも足には自信があったから(笑)。それに、バッティングはもともと評価されていたから、「高卒捕手は育成に時間がかかる」ということで、「八重樫の打撃を生かそう」ということで、セカンド、ショートになったんだよね。

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