2019.07.23

20勝して一人前。権藤博が輝きを放った
「ピッチャーが天下の時代」

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki

「令和に語る、昭和プロ野球の仕事人」 第2回 権藤博・前編 (第1回から読む>>)

 平成の世にあっても、どこかセピア色に映っていた「昭和」。まして元号が令和になったいま、昭和は遠い過去になろうとしている。だが、その時代、プロ野球にはとんでもない選手たちがゴロゴロいて、ファンを楽しませていた。

 過去の貴重なインタビュー素材を発掘し、個性あふれる「昭和プロ野球人」の真髄に迫るシリーズ。今回はドラゴンズ入団直後、いきなり人間離れした数字を残した権藤博さんの言葉を語り継ぎたい。

1961年10月7日、シーズン34勝目を挙げた権藤博を濃人渉監督が出迎える 写真=共同通信

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 権藤博さんはかつて、一瞬の輝きを放ったスーパーエースだった。1961年に中日に入団すると1年目にいきなり35勝、翌年も30勝と、とてつもない数字を残し、2年連続最多勝を達成する。

 が、この2年間で登板数が130試合にも上った影響で肩を痛め、以降は成績が急下降。野手転向の時期も含め、実働8年で現役を引退している。その後は中日、近鉄、ダイエー(現・ソフトバンク)、横浜(現・DeNA)でコーチを歴任。98年には横浜の監督としてチームを日本一に導いた。

 僕は、かねてから、「なぜ、ルーキーにしてそこまで投げなければならなかったのか」「なぜ、数字を見るだけで頭がクラクラするほどに勝てたのか」、直に聞いてみたかった。

 さらに権藤さん自身、今の投手たちをどう見ているのか、興味があった。2006年(取材当時)の日本球界は好投手の活躍が目立ち、「ピッチャーイヤー」と言いたくなるほどだった。日本代表が世界一となったWBCでは西武の松坂大輔がMVPを獲得し、ペナントレースでは2人の投手がノーヒットノーランを達成し、高校野球でも夏の甲子園では決勝戦および再試合の壮絶な投げ合いがあった。

 タイトルホルダーを見れば、パ・リーグではソフトバンクの斉藤和巳が勝利数、防御率、勝率、奪三振で四冠に輝き、セ・リーグでは広島の黒田博樹が最優秀防御率を獲得したが、いずれも防御率1点台。両リーグ1点台は1969年以来で、一方では若手の台頭もあったなか、プロ3年目で開幕8連勝を達成した中日の佐藤充は5試合連続完投勝利。これは権藤さんが61年に作った球団記録に並ぶものだった。