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エース引き抜き、徹夜で連投...。
土橋正幸が語っていた昭和のプロ野球 (2ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki

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 58年の『ベースボールマガジン』7月号には、前年に9連続奪三振を達成した阪急(現・オリックス)の梶本隆夫と握手をする土橋さんの写真が載っている。キャプションに〈二人の三振奪取王〉とある。そして何より表紙には、同年にデビューしたゴールデンボーイ、巨人の長嶋茂雄と土橋さんが並んでいる。僕は持参した資料の中から表紙のコピーを抜き取って差し出した。

 一瞬、眉間にしわを寄せて眉をつり上げ、眼鏡の奥で目を見開いた土橋さんは「それは知りませんねえ!」と言った。コピーを手にとってしばらく眺めたあとは表情がやわらぎ、「わたしの孫に見してやりたいよ。はっはっは。本当に知りませんでした」と続けた。

 前年までは無名でまだ実績のない土橋さんが、野球雑誌で六大学出身のスーパールーキーと同等に扱われたのだ。いかに奪三振記録の注目度が高かったか、うかがい知れる。実際、翌日の西鉄戦、駒沢球場は2万8000人の大観衆で埋まり、初の満員札止めになったという。土橋さんの新記録が話題になってファンが集まった可能性は大いにある。

「次の日の新聞を見て来た人はいたでしょう。わたしは試合後、『新記録だから、いくらケチな東映でもご祝儀出るよ』って監督の岩本義行さんに言われて、お金ないのに同僚と飲みに行ったんです。ご祝儀を当てにして。浅草で午前1時頃まで飯食って、銀座、渋谷と朝5時頃まで行って、朝帰りですよ。そしたら超満員でしょ? 

 結局、その試合も9回に投げたんです。あの当時はそれが普通でしたから。今みたいに1回先発して、5日も6日も休める時代じゃないでしょ? 毎日ベンチ入ってるしね。だからその年から50試合、60試合と投げていったけど、なるべくシーズン中は余計なことしないで体を休めよう、休めようってそんなことばっかり考えてましたね」

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