野村克也の教えに「うわ、すげぇ」。
土橋勝征はID野球を素直に吸収した

  • 長谷川晶一●取材・文 text by Hasegawa Shoichi

西武×ヤクルト "伝説"となった日本シリーズの記憶(24)
【伏兵】土橋勝征・後編

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主力で出場するよりも、控えのほうがプレッシャーは大きい

――オレステス・デストラーデ選手が抜けたライオンズを相手に、1993年はスワローズが日本一に輝きました。後に土橋さんは、セカンドとしてレギュラーになり、1995年、1997年、2001年と日本一に貢献します。あらためて、1992年、1993年の日本シリーズを振り返っていただけますか?

土橋 のちのシリーズでは主力として試合に出ましたけど、この1992年、1993年の日本シリーズはまだ若手だったし、控えとしての出場でした。ひとつだけハッキリ言えるのは、この2年のシリーズのほうが、あとのシリーズよりはるかに緊張感が高かったということです。

1992年、1993年の日本シリーズには控えとして出場した土橋 photo by Sankei Visual1992年、1993年の日本シリーズには控えとして出場した土橋 photo by Sankei Visual――主力で出場するよりも、控えでの出場のほうが緊張は大きいんですか?

土橋 当然ですよ。「ここ一番」という場面で出されるわけですから。「普通にやって当たり前」という状況で守備固めとして出場する。1992年はレフトの守備固めと代走。1993年はライトの守備固めと代打でした。でも、守備固め、代走、代打、代打でのバントなど、途中から試合に出る選手は相当なプレッシャーがあるんです。僕はこの2年間の経験があるから、その後の1995年のシリーズでは全然ビビっていませんでしたよ。

――そうなると、まさに前回お話に出た1992年シリーズ初戦、守備固めでの出場で見せたダイビングキャッチは緊張の極致にあったわけですね。

土橋 そうです。元から動じない性格だったんじゃなくて、その経験があったからあとのシリーズはまったく動じなかったんですよ。

――この頃のスワローズベンチには岡林洋一さん、飯田哲也さん、高津臣吾さんなど、土橋さんと同じ1968年生まれの選手が多かったです。「同級生」の存在は心強いものだったのではないですか?

土橋 確かに同級生は多かったですけど、僕は途中から出ていく守備固めでしたから。岡林はすでにエースだったし、飯田は不動の一番バッターだったし、高津もリリーフエースだった。どちらかというと、「すげぇなコイツら。みんな頑張ってくれよ」って、応援する側みたいな心境でしたね(笑)。「オレは試合の後半に頑張るから、その代わり岡林、ここで抑えてくれよ」って思いながら、(ベンチで)試合を見ていました。

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