2018.10.24

監督では二流もGMでは天下無双。
今も球界に色濃く残る根本陸夫の教え

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki
  • photo by Kyodo News

<西武ライオンズ40周年>を筆頭に、理由はいろいろあるのだろう。今年は野球マスコミ上で、その名を目にする機会が多かった。つい先日も、ドラフト1位候補選手を巡る記事中、西武球団のシニアディレクター渡辺久信の発言が載っていて、そのなかにも名前が出てきた。

死後19年経った今も、プロ野球界に多大な影響を及ぼしている根本陸夫 根本陸夫――プロ野球選手としては三流、監督としては二流、といわれたこの野球人は1999年に逝去したが、死後19年が経った今も、その存在は球界で忘れられてはいない。

たとえば、根本の愛弟子として知られる森繁和が中日ドラゴンズの監督を退きフロント入りすることが決まると、「根本陸夫の再来」と言う声も聞こえてきた。いったい、なぜ、それだけの影響力が残っているのだろうか。

 たしかに、監督としての根本はチームを優勝に導いた実績はなく、順位は3位が最高で”凡将”ともいわれる。しかし、その3位になったのが今から50年前の1968年。広島東洋カープの監督に就任して1年目で、カープを球団史上初のAクラスに引き上げたのだった。

 根本は当時からチームの編成面にも携わり、球団オーナーの松田恒次からも大いに信頼されていた。現場の監督としては結果を残せなくても、日本プロ野球界で初めて、実質的なGM(ゼネラルマネージャー)として辣腕を振るう素地が広島でできていた。
 
 1978年、クラウンライターライオンズの監督に就任した根本は、同年オフに球団が西武に身売りされた後もそのまま監督になり、同時に球団管理部長を兼任。実質GMとして活躍し始めたのはこのときからで、球団オーナーにして西武グループ総帥の堤義明からも信頼を得た。

やはり監督としては結果を出せなかったが、自ら「勝てる監督」として広岡達朗を招聘し、80年代後半から90年代前半にかけて、西武が黄金期を迎える土壌がつくられていく。

 その間、根本はいわばGM専任となって、ドラフトでは毎年のように裏技を駆使して、次々と有望選手の獲得に成功。トレードも積極的に行ない、外国人も含めた戦力補強に尽力した。