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「史上最高の日本シリーズ」は
森祇晶と野村克也の「不動」の戦いだった (3ページ目)

  • 長谷川晶一●取材・文 text by Hasegawa Shoichi

お互いの腹の読み合い、「不動」を策としたシリーズ

――1993年はデストラーデ選手がメジャー復帰により退団。さらに、ライオンズの編成部門を担っていた根本陸夫氏がダイエーに転出。いろいろと変化がありましたが、前年と比べると心境の変化はありましたか?

 それは当然ありますよ。メンバーが違うんだから。この年の敗因は先発投手のデキがすべてだった気がしますね。先発投手が打ち込まれたら、それをひっくり返すような力が当時の西武打線にはなかったですから。

――1992年と1993年で、合計14試合戦いました。もっとも印象に残っているシーンは?

 監督としたら、やっぱり1992年の第7戦、投手の我慢比べですね。相手は「(石井)丈裕を早く代えてほしい」と思っていて、僕は岡林(洋一)を早く代えてほしかった。でも、結局はこの2人が、ともに完投する。それがお互いの読み合いですよ。そういうことを意識して戦った日本シリーズは、この2年間だけだったから。

――この2年間の戦いを経て、決着は着いたと考えていいのか、それとも両者互角だったと見るべきなのか、どのようにお考えですか?

 うーん、どうだろうね。勝負というのは互角の力であれば、本当に時の運ですからね。例えば、相手がミスをするかしないか、ということもあるし、監督の打つ手が後手後手に回ってしまえばチャンスを逃してしまうものだし......。かと言って、先手を取ればいいかというと、それによって相手の術中にハマってしまうこともあるわけだし......。短期決戦で難しいのは、シリーズの間の1週間なり、10日なりの調子の見極めですよ。調子の悪い選手を切るか、それとも使い続けるか。それもまた監督の判断だから。

――相手となったスワローズの印象に変化はありますか?

 1992年と比べると、1993年は格段に野村監督の野球が選手たちに浸透していると感じました。前年までなら、バットを振り回していた池山(隆寛)が、明らかに外野を狙って、しかもライトに犠牲フライを打った場面がありました(1993年第4戦)。あのときはライトに強い風が吹いていた。ヤクルトの選手たちも1年で大きく変わっていました。

――改めて、この2年間を総括していただけますか?

 野村監督と五分に戦うためには動かないこと。下手に動けば相手の術中に見事にハマってしまうから。とにかく「辛抱」ということを学んだ日本シリーズだったと思うし、みなさんが言うように「史上最高の日本シリーズ」だと言っても、何も差支えのない日本シリーズだったと、僕自身もそう思いますね。監督同士の「不動」を策とする、無言の戦いが繰り広げられたシリーズでした。

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