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巨人ドラ1からの遠回り。日ハム村田透が
10年目の初勝利に至るまで (4ページ目)

  • 阿佐智●文 text by Asa Satoshi
  • photo by Kyodo News

 試合後のお立ち台で、村田は言った。

「結果を出して、お礼がしたかった」

 村田にとって巨人での3年間はつらかったに違いない。それでも彼は常々、「巨人での経験は無駄ではなかった」と口にしていた。

 思うように投げさせてもらえず、半ば腐りかけていた時期もあった。そんなとき、あるコーチからポツリと言われた言葉を、村田は忘れられないという。

「いいときと、悪いときの差が激しすぎる」

 プロたるもの、調子の良し悪しに関わらず、常に一定レベルの結果を出さなければならない。それをアメリカでは「コンスタンシー」と言うのだが、その言葉の意味する「不変」を心掛け、村田はキャリアを積み上げていった。

 この日の勝利を手にするまで、巨人で3年、アメリカで6年の歳月を費やした。たしかに遠回りだったかもしれないが、村田にとっては必要な期間だったのかもしれない。

 お立ち台から降りたあと、村田は手にしたウイニングボールを握りしめた。宅配便で実家に送るという。メジャーでの初登板の記念ボールは、向こうの慣習に従いスタッフによりポップなペイントがなされていた。はたして、この日のウイニングボールは......。おそらく村田が流した涙と汗の色がちょっとだけ染みているのだろう。

 そういえば、村田はまだプロでの晴れ姿を大阪に住む両親に見せていない。メジャーでの登板も急遽決まったもので、移動途中の空港から電話で知らせるしかなかった。しかし、この日のようなピッチングを続けていれば、地元・大阪での凱旋登板のチャンスも巡ってくるに違いない。

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