谷繁元信「屈辱の時代のおかげで僕は16年連続Aクラスになれた」

  • キビタキビオ●構成 text by Kibita Kibio
  • 五十嵐和博●写真 photo by Igarashi Kazuhiro

谷繁元信×野村弘樹 対談(2)

横浜時代の1998年、38年ぶりの日本一に貢献した野村弘樹氏(左)と谷繁元信選手兼監督。  撮影協力/ぐらすうっど(横浜市青葉区)横浜時代の1998年、38年ぶりの日本一に貢献した野村弘樹氏(左)と谷繁元信選手兼監督。  撮影協力/ぐらすうっど(横浜市青葉区)

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―― おふたりはかつて同じチームでプレイしていましたが、初めてバッテリーを組んだ時のことを覚えていますか?

谷繁 僕が大洋(現・横浜DeNA)に入団して、1年目(1989年)だったと思います。先発として何度か組んで、次の年、監督が須藤(豊)さんになってから、野村さんが先発の時は僕がマスクをかぶるようなったんです。

野村 1989年の僕の成績は3勝11敗だった。途中、1勝9敗までいった時は、「一休さん」って言われていた(笑)。

谷繁 確かあの年、野村さんは開幕前に交通事故を起こして、車のガラスに頭をぶつけて流血したんですよね。あれでおかしくなったんですよ(笑)。

野村 そうかもしれない(笑)。あの年は市川(和正)さんがマスクをかぶっていたね。でも、シゲ(谷繁)も1年目ながら80試合に出場しているよね。

谷繁 開幕直前に若菜(嘉晴)さんがトレードで日本ハムに移籍したこともあって、ずっとベンチには入っていました。でも、いま考えたら80試合も出ていたのかなという感じですね。

野村 オレが投げる時はシゲがマスクをかぶっていたけど、打たれてベンチに戻っては、いつもふたりで怒られていたよな。

谷繁 野村さんが投げる試合に勝たないと、他の試合で使ってもらえないと思っていたので本当に必死でしたよ。

野村 結局、1990年は11勝することができた。でも、試合前に打合せすることはほとんどなかったよな。初球の入りをどうするかぐらいで、あまり細かいことは決めなかった。

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