【WBC】侍ジャパン2009「イチロー、仲間と戦った37日」 (4ページ目)

  • 津川晋一●文 text by Tsugawa Shinichi
  • photo by Taguchi Yukihito

 3月9日、東京ドームで行なわれた韓国との一戦後のことだ。この試合で日本は敗れ、A組2位としてアメリカに渡ることになった。

「1点差負けがどうというより、負けという事実に腹が立ちますね。1回も負けたくなかった。負けという事実が許せない」

 敗戦を悔いることは当然だが、ここまで勝利に執着するイチローは初めて見た。それは今大会、日本で行なわれる最後の試合だったからか。いや、今大会というくくりではなく、日の丸を背負って日本でプレイする最後の機会になると、イチロー自身が悟っていたからかもしれない。

「僕にとっては、今日が日本での最後のゲームなので。僕にとって、ただの韓国との試合ではないので」

 だからこそ、最後に放った中前打を「ただの一本ではないことは間違いないですね」と言い切った。

 次回大会は2013年。もう39歳になっている。さすがのイチローも、代表のユニフォームを着ている保証はどこにもない。だがむしろ、それはある意味で歓迎すべきことでもある。自分の背中を見て育った次世代の日の丸戦士たちに中核を担ってもらわないと、ニッポンの野球に明日はないからだ。

 かつてイチローが、こんな話をしてくれたことがある。

「僕は野球で育ったわけですから、もし日本で野球を愛してくれる人の数が減ってしまったら、それは本当に寂しいし、そうならないように願っています。アメリカでは、昔も今もベースボールが人々の気晴らしの手段として外れることはありません。それだけ国の中に根づいていることの証(あかし)なんでしょう。日本にとっての野球も、できるだけ長く愛される存在になるべく、努力しなければならないと思っています」

 優勝直後に松坂は、第3回への参加を問われ「いつでも呼ばれる選手であり続けたい」と、まさに3年前のイチローが話したとおりの言葉を残した。また、青木は「いつか僕らの世代が必ず上になっていくわけだし、イチローさんに頼ってばかりではいけない。自分が引っ張るつもりで臨んだ」と言った。

 これ以上ない形で、次の大会へ架け橋を渡した。

 永久の別れか、刹那(せつな)の感傷か。

 そして、イチローは。

 4年後、その答えが紐解(ひもと)かれる。


『Sportiva増刊 WBC2009総集編』(2009年3月28日発売)より転載

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