【プロ野球】高津臣吾「野村監督、古田さんがいなかったら、今の自分はない」 (2ページ目)

  • 大田誠(テレビ朝日 Get SPORTS取材班)●文 text by Ohta Makoto(tv asahi Get SPORTS crew)
  • 日刊スポーツ●写真 photo by Nikkansports

 プロ野球人生を変えたふたり。そのひとりが、高津の入団時に監督を務めていた野村克也である。高津は野村監督に、野球の基礎を叩き込まれた。

「野球の奥深さとか、人としてどう生きるかとか、そういう話をたくさん聞きましたけど、やっぱりひとつずつがすごく難しかったですね。理解しようと努力はするんですけど、なかなか理解できなかったり、頭でわかっていても体が反応しなかったり......。とにかくすごく難しかったです」

 それでも高津は、野村監督の難しい要求に応えていく。そこに、プロ野球人生を変えたふたり目の男、古田敦也の存在があった。

「野村監督に『100キロのシンカーを投げろ』って言われて......。普通に思い切り腕を振れば130キロや140キロは出るわけで、100キロまで落とせということ自体、無理だと思ったんです。ただ、それをやらないと生き残れないし、本当に大丈夫かと思いながら投げたんです。そうすると、野村監督の言っている意図がわかってくる。はじめてそこで、こうやって打ち取ることが100キロのシンカーを投げろという意味だったのかと。そういう問題を古田さんと一緒に解いていましたね。古田さんも受ける側として、『もうちょっとこっちに投げた方がいいんじゃないか』とか、『もう3キロ遅い方がいいんじゃないか』とかアドバイスをくれて、そういう中で僕のピッチングスタイルが完成していったという感じですね」

 こうして魔球『シンカー』を武器に、ストッパーという地位を確立した高津は、ヤクルトで5度のリーグ優勝、3度の日本一に貢献。松井秀喜のプロ初ホームランの陰に隠れながら挙げたプロ初セーブから10年、佐々木主浩が当時持っていた通算セーブ記録の229を更新し、日本一のストッパーへと上り詰めた。そこで訊いた。高津にとってストッパーとは?

「難しいなぁ、言葉が出ないねぇ......。スペシャルかな、すべてにおいて。最後の3つのアウトも特別だし、存在も特別だし、責任も特別にあるしね。いろんな意味で特別じゃないですか。スペシャル」

 2003年のシーズン終了後、これまで日本で積み上げてきた実績をすべて投げ捨て、35歳という年齢でメジャー移籍を宣言し、周囲を驚かせた。

「僕自身、このままヤクルトで終わっていくんだろうなと正直思っていました。ただ、それなりの成績もおさめて、優勝もさせてもらって、刺激が欲しかったのは間違いないですね。このまま野球人生が終わってもいいのかなと思い始めたのが30歳を超えてから。メジャーリーグの中継もたくさんテレビで見られるようになりましたし、チームメイトも何人かアメリカに行きましたし、そういうのを見ていると、残り少ない野球人生を本当にこのまま終わってもいいのかなと思うようになって......。チャレンジするチャンスがあるなら、勉強する意味も込めて挑戦してみたいなと思いました。ただ、正直ちょっと遅かったですね。35歳だったから(笑)」

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