元チームメートが語る野茂英雄が切り拓いた日本人メジャーリーガーの道と1995年地区優勝 (3ページ目)
【「ヒデオの挑戦は、個人的なもの以上の意味を持っていた」】
――イチローが殿堂入りセレモニーで「自分がメジャーで成功できたのは野茂さんのおかげだ」と感謝を述べました。あなたは野茂のチームメートとして、彼の先駆的な挑戦とその影響をどのように見ていますか?
「ヒデオがいなければ、イチローや松井秀喜、そして大谷翔平の野球人生も変わっていたかもしれません。ヒデオが1995年にドジャースに来たとき、私たちアメリカの野球人は何を期待していいのかわかりませんでした。当時はまだ『日本人選手はメジャーで成功できない』という考えが根強くありましたから。最後に日本からやってきたのは、1960年代の村上雅則でしたしね」
――彼の挑戦について、日本球界関係者から冷ややかな見方をされていたことは知っていましたか。
「ある意味"反逆児"で、彼を応援して『頑張れ』と送り出してくれたわけではなかったことは知っていました。厳しい状況のなかで渡米し、成功を勝ち取らなければならなかった。もし成功すれば後に続く選手たちに道を開くことになるが、うまくいかなければ逆にそのチャンスを奪うことになる。つまり彼の挑戦は、単なる個人的なもの以上の意味を持っていたのです。一方で、その後にやって来たイチローや松井は、より野球に専念できた。なぜなら扉はすでに開かれていたからです。ヒデオは、その扉をこじ開けなければならなかった」
――1995年の春季キャンプは、ストライキの影響で変則的でした。野茂がマイナー契約で参加した際、まだメジャーの選手たちはいませんでした。ベロビーチ(フロリダ州にあるドジャースのキャンプ地)で初めて会ったとき、どんな第一印象を持ちましたか?
「実は1992年シーズン終了後、オールスターチームの一員として日本に遠征したとき、ヒデオと対戦した経験があった。そのときの記憶が強く残っていました。覚えていた理由は、あの独特な"トルネード投法"です。あんなフォームは見たことがなかった。だからドジャースが野茂と契約したと聞いたとき、『あの変わったフォームの投手じゃないか?』とすぐに思い出しました。そして実際にキャンプで見て、『ああ、やっぱりあの野茂だ』と思いました」
つづく
著者プロフィール
奥田秀樹 (おくだ・ひでき)
1963年、三重県生まれ。関西学院大卒業後、雑誌編集者を経て、フォトジャーナリストとして1990年渡米。NFL、NBA、MLBなどアメリカのスポーツ現場の取材を続け、MLBの取材歴は26年目。幅広い現地野球関係者との人脈を活かした取材網を誇り活動を続けている。全米野球記者協会のメンバーとして20年目、同ロサンゼルス支部での長年の働きを評価され、歴史あるボブ・ハンター賞を受賞している。
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