伊良部秀輝、松坂大輔、藤浪晋太郎... プエルトリコの地に残る日本人選手たちの記憶とクレメンテの面影 (4ページ目)
なんとも有り難い申し出に頭が下がる。試合後、クレメンテにゆかりのある場所を巡るナイトツアーへと繰り出した。向かった先はビジャ・サンアントン地区。カロリナのなかでも特に貧しいエリアであり、決して治安がいいとは言えない。麻薬マフィア警戒の言葉が頭をよぎるが、クルスさんはそんな私の不安を察したようだ。
「あまり治安のいい地区とは言えないね。でも、ここの住民同士の結びつきは強いよ。ほら、この路地の奥が、クレメンテが子どもの頃に過ごした場所だよ。さっと車から降りて、写真を撮ってきな」
クレメンテ自身がニカラグアを訪れた際に抱いた印象は、「30年前のプエルトリコ」だったそうだ。貧しくとも、人々は助け合いながら生きている。ここビジャ・サンアントンは、カロリナのなかでも昔ながらの生活が残っている数少ない地区なのだろう。
翌日、早朝のサンファン空港を経て、経由地のパナマシティへ向けて飛び立つ。クレメンテを乗せた飛行機は、1972年12月31日の深夜、この場所で漆黒の海へと消えた。しかし、いま私の視界に映る水面は朝日に照らされ美しい。
幼少期には弟・ロベルトよりも野球がうまかったという兄のマティーノは、今年3月に97歳で亡くなった。大往生だろう。朝日を浴びて輝く海原の光景は、まるで半世紀の時を越え、兄との再会を果たしたクレメンテの魂を映し出しているかのように神々しかった。
ロベルト・クレメンテ/1934年8月18日生まれ、プエルトリコ出身。55年にピッツバーグ・パイレーツでメジャーデビューを果たし、以降18年間同球団一筋でプレー。抜群の打撃技術と守備力を誇り、首位打者4回、ゴールドグラブ賞12回を受賞。71年にはワールドシリーズMVPにも輝いた。また社会貢献活動にも力を注ぎ、ラテン系や貧困層の若者への支援に積極的に取り組んだ。72年12月、ニカラグア地震の被災者を支援する物資を届けるため、チャーター機に乗っていたが、同機が墜落し、命を落とした
著者プロフィール
加藤 潤 (かとう・じゅん)
1974年生まれ。東京都出身。中日ドラゴンズ通訳。北海道日本ハムファイターズで通訳、広報、寮長に就いたのち、2011年から現職。シーズン中は本業をこなしながら、オフには海外渡航。90ヶ国を訪問。稀に文章を執筆。過去にはスポーツナビ、中日新聞、朝日新聞デジタル版に寄稿。またコロンビアのTV局、テレメデジンとテレアンティオキアに話題を提供。現地に赴き取材を受ける
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