秋山翔吾、5年目の転機。守備の人→安打製造機へ柳田悠岐に勝ちたかった (2ページ目)

  • 中島大輔●取材・文 text by Nakajima Daisuke
  • photo by AFLO


 ドラフトで指名を受けた万人が何らかの才能を買われ、プロ野球の世界に足を踏み入れる。金の卵がひしめく中でチャンスを与えられるのは、首脳陣がとくに魅力を感じた者だ。秋山にとって、それが守備だった。

 入団4年目までの打率は「.232→.293→.270→.259」と浮き沈みがあるなか、守備で欠かせないピースとして試合に出続け、5年目の2015年に216本のヒットを放って年間最多安打記録を樹立する。飛躍の裏にあったのが、周囲の求める"幻影"と決別し、自身のスタイルを確立したことだ。昨年、秋山はこう話している。

「入団して4年間、トリプルスリーの秋山(幸二)さんという名前があって、それに乗っかっていたところもありました。でも、能力が違うというか、できないことに限界を感じて、『自分が進む道はじゃあ、どっち?』って」

 西武ライオンズで「秋山」と言えば、ジェットミサイル(※応援歌の歌詞に使われていた)の秋山幸二だ。1989年にトリプルスリーを達成し、その2年前には43本塁打&38盗塁で「フォーティー・フォーティー」にあと少しまで迫った。日本人野手が海の向こうに渡る前、「メジャーに一番近い男」と言われたこともある。

 偉大な先輩のいた球団に自分の名を刻むには、何か突き抜けたものがなければいけない──。

 入団4年間でふたケタ本塁打が1度しかなかった秋山にそうした思いを強くさせたのが、同い年のふたりだった。同じ左打者でよく比較される柳田悠岐(ソフトバンク)と、西武の外野手で2014年に台頭した木村文紀だ。

「柳田に何か勝ちたいと思って始めたのが、ヒットを打つことに特化するというところもありました。2015年のきっかけとしては(前年に)木村が出てきて、走れて飛ばせるみたいなものがあったから、自分の能力では限界あるなって思ったんですよ。勝負できるものを自分のなかで探して、極めていく。何かを捨てないといけないのがホームランでした」

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