イチローの日米通算1本目を取材した記者が見た「超一流プロの流儀」 (2ページ目)

  • 小西慶三●文 text by Konishi Keizo
  • photo by Getty Images

 彼の生涯打席の半分以上を目撃してきた筆者にとって、その言葉以上にイチローのここまでの戦いを端的に表現しているものはないように思える。

 2013年8月21日のブルージェイズ戦で日米通算4000本。次の1本を追い求める旅は、もう当分誰も追いつけそうにないところまでやってきた。1992年の夏、平和台球場でプロ1本目を放ったときから彼は何を思い、何を模索しながらヒットを重ねてきたのか。それぞれの節目と当時の状況を段階的に振り返れば、その言葉の意味が見えてくる気がする。それぞれ筆者にとって忘れられない節目をたどりつつ、その言葉の奥底にあるものを探ってみたい。

【1992年7月12日@平和台球場】

 これはただ者ではない。プロ1本目を打たれたピッチャーの直感が始まりだった。ベンチに戻ってきて「あいつ高校を出たばっかりやで」と聞かされて、「ああ、すごいなあと普通に思いましたよ」と木村恵二(元ダイエー、西武)は振り返る。

「スライダーだったかな。ランナーはいなかったんじゃないかな」

 ライト前にきれいに持っていかれた。鈴木一朗のスイングは明らかに普通の高卒ルーキーと違っていた。

「普通、高校を出たばかりのバッターに真っすぐを投げたら、ボールに負けるんです。変化球にもついてこれない。僕、プロに入る前に社会人(日本生命)でやっているでしょ。社会人野球でも同じなんですが、高校から入ったばかりのバッターはまだ全然レベルが違っているんです。それが彼の場合はバットコントロール、スイング(のキレ)といろんなものがもうプロのレベルにあった。違和感はなかったですね」

 その夜、鈴木一朗は屋台で1杯300円のラーメンを堪能しつつ、"計画"が予定通りにいかないことを嘆いていた。

「1週間で二軍に戻してくれたら最高なんだけどな」

 高卒の外野手がプロ1年目のオールスター前に一軍昇格を果たして、まして初ヒットを記録するのはそうあることではない。だがそこで、当初の"計画"を貫こうとしたことが普通ではなかった。

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