【高校野球】健大高崎・青栁博文監督が明かす創部秘話 300万円の借金、涙の10年間を経てたどり着いた甲子園
名将たちの甲子園初出場物語
青栁博文(前編)
2024年春の選抜甲子園。健大高崎(群馬)の青栁博文監督は、閉会式で紫紺の大優勝旗を掲げ、堂々と聖地を一周するナインを万感の思いで見つめていた。群馬県勢初の春制覇。それは、高校野球界に革命を起こした鮮烈なスタイルが全国の頂点を極めた瞬間だった。
しかし、時計の針を2000年代初頭まで巻き戻すと、そこに現在の華やかさは微塵もなかった。
この夏、3年連続6回目の出場を決めた健大高崎・青栁博文監督 photo by Katsuharu Uchidaこの記事に関連する写真を見る
【会社員を辞め、高校野球の世界に】
青栁監督が健大高崎の教員になると同時に、創部した硬式野球部の指揮官に就任したのは、日韓共催のサッカーW杯開幕に向け日本中が沸いていた2002年の春。当時30歳だった。前橋商から東北福祉大学を卒業後、群馬に戻り、自動車関連部品会社の軟式野球部でプレー。廃部に伴い、地元の建設会社に転職して営業や総務を担当するなど、前職と合わせて会社員を8年間経験した。
「別に、期待されて呼ばれたわけじゃありません。健大高崎の野球部は、群馬女子短大付が2001年から共学化されて今の校名となり、男子生徒が学校に直訴してできた部なんですよ。前橋商時代の恩師から『群馬女子短大付が共学になったので、そこで野球の指導者をしてみないか』と連絡をもらったのがきっかけです。私も社会科の教員免許を持っていましたが、福祉の免許を持った人材が条件でしたので、通信教育で教員免許を取得することを条件に採用されました」
サラリーマンを辞め、健大高崎に赴任した青栁監督を待っていたのは、愕然とするような現実だった。当時、専用グラウンドはなく、テニスコート2面分ほどの狭い空き地が指定の練習場所だった。ただ、それ以前にお金も野球道具もなかった。
「最初、ボールは2ダース、バットは3本しかありませんでした。女子校から共学になったばかりで、学校側も何を買い与えればいいのかわからない状態だったんです。生徒会から割り当てられた年間十数万円の予算だけでは到底無理だったので、自分で300万円ほど借金をして必要なものを買い足していました。文字どおりゼロからのスタートでしたね」
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著者プロフィール
内田勝治 (うちだ・かつはる)
1979年9月10日、福岡県生まれ。東筑高校で96年夏の甲子園出場。立教大学では00年秋の東京六大学野球リーグ打撃ランク3位。スポーツニッポン新聞社でプロ野球担当記者(横浜、西武など)や整理記者を務めたのち独立。株式会社ウィンヒットを設立し、執筆業やスポーツウェブサイト運営、スポーツビジネス全般を行なう




















