【高校野球】阪神ドラフト1位の立石正広を輩出 高川学園はいかにして強豪校へと上り詰めたのか (3ページ目)
控えの内野手だった椋木蓮に投手転向を進言した西岡大輔部長 photo by Uchida Katsuharuこの記事に関連する写真を見る
【控えの内野手だった椋木蓮】
選手の適材適所を見極めたうえで、次のステージへと送り出すのも高川学園の特徴だ。西岡部長は大学時代の2015年、母校にコーチング実習へ訪れた際、当時高校1年だった椋木が控えの内野手として在籍していた。「当時は細くて、ほぼ記憶に残っていないです」と言うように、目立った選手ではなかった。
しかし、二塁でノックを受けている際、サイドからのスローイングの正確さに魅力を感じ、投手転向を進言。2年春からサイドスローで本格的に投手を始め、同年夏の甲子園メンバーに食い込んだ。
球速は120キロほどだったが、背番号1で迎えた3年夏には140キロをマーク。引退後に右腕をスリークオーターの高さまで上げたところ、145キロまでアップした。東北福祉大では1年春から登板を重ね、4年時には最速も154キロまで到達し、ドラフト1位でプロ入りするまでに成長。もしそのまま内野手を続けていたら、同じ結果にはならなかったかもしれない。
「椋木は今でこそ中継ぎですごい球をガンガン投げていますけど、高校時代を考えると誰も想像できなかったのではないでしょうか。当時はサイドスローの投手がいなくて、おまえがやれ、といった感じで投手に転向させましたが、一番は本人が自分に期待して頑張ったということが大きかったのではないでしょうか」
山野、椋木、そして立石も中学の高川学園シニア出身。3人とも中高7年間をかけてじっくりと育成していった結果、大学でその才能が開花した。以前は中学も指導していた松本監督が嬉しそうに口を開く。
「彼らがよく頑張った結果だと思います。山野、椋木、そして立石と、山口にもそういう素材がいて、僕らが唯一できたことは、その素材を殺さずに次のステップへとお預けできたこと。何か画期的な優れた指導をしたとは思っていません」
偉大な先輩の背中を見て育った後輩たちがその後に続くために、自ら考え、必死に努力を重ねる。だからこそ、高校だけでなく、次のステージでも輝くことができる。高川学園が2025年に残した足跡は、決して偶然ではない。
著者プロフィール
内田勝治 (うちだ・かつはる)
1979年9月10日、福岡県生まれ。東筑高校で96年夏の甲子園出場。立教大学では00年秋の東京六大学野球リーグ打撃ランク3位。スポーツニッポン新聞社でプロ野球担当記者(横浜、西武など)や整理記者を務めたのち独立。株式会社ウィンヒットを設立し、執筆業やスポーツウェブサイト運営、スポーツビジネス全般を行なう
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