三冠王の立教大・山形球道 非エリートの悩める心境「プロ志望届を出したい気持ちはありますが...」 (2ページ目)
【甲子園と指定校推薦を求め沖縄へ】
高校進学の際も強豪校からの誘いはなく、自ら情報を集めた。そのなかで甲子園出場の可能性があり、かつ立教大の指定校推薦枠のある高校を探し、沖縄の興南高校に決めた。
見知らぬ土地での寮生活の覚悟もできていた。ところが中学3年の12月、右ヒジの離断性骨軟骨炎が発覚。医師からはキャッチボールはもちろん、バットスイング、トンボがけも控えるよう言われた。
ただ、その医師は元甲子園球児だったこともあり、親身になって治療にあたってくれた。沖縄のクリニックにも治療方法など、すべて引き継いでくれた。沖縄に行く前は、地元・東京の平和島にあるバッティングセンターに通い詰め、ヤクルトやオリックスでプレーした副島孔太さんからも指導を受けた。
興南高校入学後はケガの状態を見ながらその日その日を過ごし、草むしりやグラウンド整備に明け暮れる日もあった。
徐々にヒジの状態もよくなり、2年秋には外野のレギュラーポジションを獲得。沖縄大会を制し、九州大会ベスト4まで進んだ。
甲子園出場も見えてきた矢先、新型コロナウイルス感染拡大の影響で春夏の甲子園大会が中止となった。失意に暮れるなか、それでも山形は「指定校枠を取らなければ、沖縄に来た意味がない」と自分に言い聞かせ、英語を得意科目に3年間成績1位を守り抜いた。その一方でウエイトにも励み、体重を5キロ増やすなど、たくましい体をつくり上げた。
結局、高校時代は甲子園出場を果たせなかったが、指定校推薦で念願の立教大に合格。ヒジも完治した。
「球道」という名前は、「球けがれなく、道険し」のテーマで描かれた水島新司氏の野球漫画『球道くん』からとられたものだ。
【立教大では59年ぶり2人目の快挙】
山形がレギュラーになったのは、正式にはこの春から。2年からベンチ入りはしていたが、試合に出たり出なかったりの選手だった。しかしこの春のリーグ戦は13試合に出場し、54打数24安打で打率.444、打点17、本塁打5本の大活躍で、戦後史上18人目の三冠王に輝いた。
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