プロに届かなかった大阪桐蔭の天才打者が振り返る栄光と挫折の野球人生 自分を拾ってくれた指揮官からの「クビ宣告」 (2ページ目)
「監督さんから『もう1回花を咲かせよう』と言っていただきました。『本当に自分でいいんですか?』と何度も確認しましたね(笑)」
ただ、4年春に不運が襲う。開幕第2週の法大戦。「7番・二塁」で出場も、初回にファウルフライを追いかけ、右翼手と激突。左足腓骨骨折の重傷で、シーズンを棒に振った。リハビリを経て、秋には復活したが、違和感が消えることはない。4年間通算で61打数11安打、打率.180。大学野球で結果を残すことはできなかった。
「俊足巧打でやらせてもらっていましたが、俊足は消えましたね。50メートル走5秒9で走っていたのが、6秒2、3になりました。ベースランニングも左足でベースを蹴る時に痛いんですよ。今でも触るだけで痛みが出ます」
【社会人1年目で都市対抗優勝】
ただ、走攻守の「走」から「攻」へ比重を移したことで、「打つことに専念できた」という。JFE東日本では、本格的にウエイトトレーニングに取り組み、大学時代の74キロから83キロまで増量すると、打球の飛距離も格段にアップ。春先からスタメンの座を勝ちとり、都市対抗切符を手に入れた。
「地区予選までは3番DHや一塁で出ていましたが、打たなかったことはあまりなかったと思います」
都市対抗では二塁守備に就き、本来のリズムも戻ってきた。準決勝の東芝戦、1点を追う延長10回二死満塁から右前へ逆転サヨナラ打。ヒーローインタビューではマイクを握りしめ、37歳の誕生日だった落合監督にバースデーソングを贈るなど、関西人のノリも復活した。
決勝のトヨタ自動車戦でも2安打1打点と、チームを初優勝に導いた。17打数7安打3打点、打率.412の活躍で、同期の今川優馬(日本ハム)らと若獅子賞(新人賞)を受賞。その年の社会人ベストナイン(二塁手)にも選出され、充実した1年を過ごした。
「大学とは練習量が違いましたね。朝9時から4時頃まで練習をしたあとにウエイトをしたりするので、やっていることはプロに近いと思います。最初は肩やヒジが痛かったんですけど、練習量でカバーして、都市対抗では5試合フルでセカンドを守れるようになりました」
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