1984年夏の甲子園〜初戦で優勝候補に逆転勝利した取手二は大はしゃぎして厳重注意を受けた

  • 楊順行●文 text by Yo Nobuyuki

1984年夏の甲子園〜元取手二・中島彰一が振り返るPLとの激闘(中編)

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PL学園を破り、茨城県勢として初優勝を果たした取手二ナイン photo by Sankei VisualPL学園を破り、茨城県勢として初優勝を果たした取手二ナイン photo by Sankei Visualこの記事に関連する写真を見る

【木内監督は取手二として最後の夏】

 すべて「木内マジック」だったのか......中島彰一は考えることがある。

「いまにして思えば、上下関係が厳しかった当時、桑田くんが『これが茨城のナンバーワンのチームですか』と人前で言うかな、と。我々に火をつけようと、木内(幸男)さんが馴染みの記者を言いくるめてのフェイクだったのかもしれませんよ。もっといえば、メンバー外にクビを言い渡したのも、センバツのあとピリッとしないチームに喝を入れるためだったのかも。木内さんはこの夏が最後でしたから、そのくらい大胆な勝負をかけてもおかしくありません」

 選手をその気にさせるのはお手のものだ。たとえばミーティング中、かつて教えた名選手の話に脱線することがある。茨城なまりの木内節で、「○○ときたら、ケンカは強いけど、ふだんは練習しねぇんだ。でも試合になるとえらい頼もしい」と。これにはやんちゃな選手ほどくすぐられ、翌日からは試合で力を発揮するためにどうしたらいいか工夫しながら練習する。

 これ見よがしに居残り練習しようものなら、「オレの目の前でやるのなんか練習じゃないし、評価しない。さっさと家に帰れ」と言う。選手というのは不思議なもので、そう言われると帰宅してから素振りやトレーニングに汗を流すのだ。

 じつは木内監督は、この夏を最後に同じ茨城県内の常総学院に移ることが決まっていた。明言はしなくても、選手たちは薄々気がついている。なにしろ、有望といわれる中学生が何人も、来年度は常総に進むという噂がひっきりなしだったのだ。

 ともあれ、招待試合でPLに敗れたあとのチームは、これが分裂寸前だったとは思えないほど、別人のように変わった。

「そこからは練習試合も含めて、茨城大会から甲子園と負けなしじゃなかったかな。とはいっても、『これが最後の木内さんのために』なんていうモチベーションではなかったですけどね」と中島は笑う。

 不安があったとしたら、センバツで肩痛が再発した石田文樹の状態か。

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