モイセエフ、ラマルだけじゃない...甲子園に出場した姓も名も「カタカナ」の選手は何人?
今センバツで注目の強打者ツートップといえば、スリランカ出身の両親を持つ大阪桐蔭のラマル・ギービン・ラタナヤケと、ロシア出身の両親を持つ豊川のモイセエフ・ニキータだ。モイセエフは初戦敗退したが、阿南光の好投手・吉岡暖から大会第1号本塁打を放つなど、存在感を示した。
奇しくもともに外国にルーツを持ち、姓も名前もカタカナというふたり。近年は国際化が進み、海外にルーツを持つ選手が甲子園で活躍するのも珍しくなくなったが、登録名がカタカナだけという選手に限ると、春夏甲子園の長い歴史のなかでも、それほど多くない。
大阪桐蔭のラマル・ギービン・ラタナヤケ(写真左)と豊川のモイセエフ・ニキータ photo by Ohtomo Yoshiyukiこの記事に関連する写真を見る
【甲子園最初のカタカナ名の選手は?】
ラマルは昨年のセンバツにも出場しており通算13人目。今回のモイセエフが14人目となる。同じ大会にふたり以上出場するのは、2021年夏の日本航空がヴァデルナ・フェルガス(現・青山学院大)とエドポロ・ケイン(現・大阪学院大)を擁した例があるだけで、異なるチームからふたりというのは今回が初めて。
第1号は、昨夏の甲子園で慶應義塾が優勝を果たした際にも話題になったが、その107年前の1916年夏に慶応普通部の優勝メンバーだったジョン・ダン。父親が米国籍の農業技術者で、16年は全4試合に「2番・ファースト」で出場し、優勝に貢献。翌17年の第3回大会も出場し、やはりファーストを守って2試合に出場した。「優勝メンバーのジョン・ダン」として大会資料に残ってはいたものの、近年まで三田倶楽部(慶応OB会)でも素性が把握できておらず、2015年に親族と連絡がとれてようやく詳細が判明したという。
この後、カタカナ名前の甲子園出場選手は長い間見当たらず、1970年夏、71年夏に出場した岡山東商のケネス・ハワード・ライトが第2号。オーストラリア人の父、日本人の母を持つ186センチの長身投手で、71年夏はエースナンバーを着け、吉田隆行投手との二枚看板でチームの4強進出に大きく貢献。ドラフト4位で阪急ブレーブス(現・オリックスバファローズ)に入団し2年間在籍したが、一軍登板はなかった。
1 / 2
著者プロフィール
戸田道男 (とだ・みちお)
1961年岩手県一関市生まれ。明治大学卒業後、東京スポーツ新聞社で4年間野球担当記者を務めたのち、ベースボール・マガジン社入社。週刊ベースボール、ベースボール・クリニックほか野球関係の雑誌、ムックの編集に携わる。2011年に同社を退職し、同年から2021年まで廣済堂出版発行の「ホームラン」編集を担当。現在はフリーランスの立場で野球関連の編集者&ライターとして活動中。