中学2年で単身野球留学から波乱万丈の現役生活。IMGアカデミー出身の独協大4年生がジャイアンツの通訳になるまで (3ページ目)
【異国での苦労を知るからこそ】
結局、大学の4年間でも肩は治らず、オープン戦数試合に投げたのみで、公式戦のマウンドに立つことはなかった。入学当初は日本でのひとり暮らしに戸惑い、肩のケガが治らない焦りもあって、心のバランスを崩したこともあった。
それでも「年下だけど分け隔てなく同志として接してくれました」という5歳違う同期の仲間たちにも助けられ、日本野球のよさも存分に吸収した。
「礼儀正しいあいさつや振る舞い、ゴミを拾ったり、靴をきれいに揃えたり、細かい部分にすごく感銘を受けました。ノックが終わったあとに、しっかりボールの個数を数えることにも驚きました。アメリカでも自分たちでボールの片づけなどはやりますが、ここまで徹底している国はほかにないと思います。そしてなにより、純粋に野球が好きな選手が本当に多かったです」
一進一退だった右肩の状態も「こういう投げ方をしたらここが痛くなるんだ」「体のこの部分の柔らかさが失われるとこうなるんだ」など、日々学びや発見があり、楽しくなっていったと前田は言う。
「確実に前進していました。もちろん、思ったようなボールがなかなか投げられずに歯がゆい思いをしたことはありましたが、野球を嫌いになることは一度もありませんでした」
最後の秋のリーグ戦、前田はスタンドからの応援だったが、チームは首都大学2部リーグを優勝。入れ替え戦では1勝2敗と惜しくも1部昇格はならなかったが、優勝を決めるチームメイトの決勝打に泣き、入れ替えでの敗北では仲間とともに涙した。
「この4年間で生涯の友がたくさん出ました。入学当初のツラかった日々も、彼らと接していくうちに精神状態も回復していきましたし、本当に大きな存在です」
そして「卒業後も野球に携わっていたい」と常々考えていた前田の進路は、冒頭でも触れたように巨人の通訳に決まった。獨協大の亀田晃広監督は知人の職員から通訳を探していると聞き、前田を推薦した。
「中学2年でアメリカに行くなんてまず考えられないし、いろんな学校を経て、23歳でうちに入学し、やりきったことはすごいと思うんです。おおらかで人柄もいいので、同学年はもちろん、先輩・後輩かかわらず誰からも愛されて、英語もまったく問題ないので推薦しました」(亀田監督)
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