「外してください」主将が決勝戦の欠場を直訴。1991年大阪桐蔭の初出場初優勝は革命的だった (4ページ目)
6回終了時点で12対7。野手の援護射撃により優勢に立った大阪桐蔭ではあったが、相手も黙っていなかった。7回、一死一、二塁から1点を返されたところで長澤は腰を上げ、和田から背尾へとスイッチする。
和田から「頼むわ」とボールを託された背尾は、準決勝の星稜戦で甲子園初白星を手にした勢いそのまま、一、二塁のピンチでキャッチャーフライ、三振と後続を断ち、ベンチの期待に応えた。和田がへばったら俺が抑える----「もうひとりのエース」の姿勢は、決勝の大一番でも健在だった。
9回二死、走者なし。スコアは13対8。フルカウントからの8球目、背尾が投じた瞬間、ショートの元谷信也は「(打球が)来る」と確信したという。
「なんか、感情に浸るわけでもなく、サラッと処理してもうて(笑)」
元谷は難なく捕球し送球すると、ボールはファースト・萩原のミットに収まった。
1976年の桜美林以来となる初出場初優勝の快挙。産声をあげてまもない創部4年目のチームは、全試合で2ケタ安打と圧倒的な破壊力を見せつけ、全国の頂に到達した。
マウンドに歓喜の輪が広がる。アルプススタンドで声を枯らした応援団長・今宗憲の頬には、喜びの涙が伝っていた。
部長の森岡は「明日は試合ないんか。もうあいつらと野球ができんのか......」と、うれしさと寂しさが同居していた。
チームを優勝へと導いた監督の長澤は、「一戦必勝」と肝に銘じて臨んだ夏に日本一になれたことに、充足感をにじませていた。
深紅の大優勝旗を主将の玉山が手にする。閉会式での場内一周では、終始、険しい表情だった。もう、体力が限界だったのだ。
「先生、優勝旗はよ持って。重たい!」
冗談めかしながら森岡に日本一の証を託す。これが、玉山にとって精一杯の愛嬌だった。
「これで、本当に終わったんやなぁ」
主将が安堵する。玉山が重責から解放されたのだと実感できたのは、宿泊先のホテルに到着してからだった。祝勝会。大阪桐蔭の旗頭は、校長の森山から力強く手を握られ、労われた。
「ようやった!」
その瞬間を、玉山は忘れられないという。
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