大阪桐蔭の「夏の甲子園」初勝利。控え部員の献身に主役をはじめナインが応えた (3ページ目)

  • 田口元義●文 text by Taguchi Genki
  • photo by Okazawa Katsuro

 夏の甲子園でも応援団長を引き受けた理由を、今は「主将の存在」とはっきり言った。

「僕らみたいな部員にも目を配れるのが、玉山というキャプテンなんです。何気ないやり取りでしたけど、あの言葉がなかったら、絶対に応援団長をやっていなかったです」

 夏の甲子園開幕直前に主催の朝日新聞で掲載された『代表校の戦力評』によると、総合「A」は、センバツで大阪桐蔭を下した準優勝校の松商学園、同ベスト8の鹿児島実、前年夏の優勝校の天理、そして大阪桐蔭と、49代表のうちわずか4校だった。

 前評判の高さに加え、ベンチとアルプスの結束を固めた大阪桐蔭は、大会7日目の2回戦からの登場となった。相手は同じく初出場の群馬・樹徳高校だった。

 初回に1点を先制されながらもその裏、一死二、三塁とすかさずチャンスをつくる。アルプススタンドからの重低音を背に打席に立った4番の萩原誠が、樹徳の先発・戸部浩の内角寄りストレートを狙いすましたかのようにレフトに弾き返し、すかさず逆転。大阪桐蔭は3回に2点、4回に3点、5回にも2点を追加するなど樹徳を圧倒した。

「悔しい気持ちがあるのにチームを支えてくれている。あいつらのためにも頑張らないと......」

 メンバー外の選手への思いを抱き打席に立っていたという萩原は「天性の長距離砲」と言われる一方で、じつは研究熱心な選手だった。現在ほど情報がなかった時代とはいえ、対戦相手の映像を仕入れるなど、最低限の対策は講じていた。「対戦相手のビデオは......見てたかな?」と曖昧に振り返る選手が多いなか、萩原は「見ていました」とはっきり口にした。

「どんなタイプのピッチャーかを確認するくらいでしたけど。真っすぐで攻めてくるのか、インコースが多いのか......とか。僕は警戒されていたので、どういう攻め方になるのかなとイメージしながら見ていましたね」

 さらにこの夏は、「大会屈指のスラッガー」としても闘志を燃やしていた。

「萩原くんに僕の記録を抜いてほしい」

 大会直前、森岡がPL学園OBから伝えられたのは、西武の主力として活躍していた清原和博の言葉だった。1985年夏の甲子園で「1大会5本塁打」の記録を打ち立てた(当時)スーパースターからの激励は、萩原にとってこれ以上ないモチベーションになった。

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