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「すぐ辞めそうだった」男が大阪桐蔭のエースへ。センバツ初戦で快挙を達成した (4ページ目)

  • 田口元義●文 text by Taguchi Genki
  • photo by Okazawa Katsuro

 最上級生として迎えた秋季大会初戦の藤井寺工戦。キャッチャーの白石は、和田のパフォーマンスに度肝を抜かれた。

「スライダーがやばいくらい曲がるし、ストレートも相当速くなっていました。監督は『和田と背尾は両方エース』という言い方をされていましたけど、あのあたりから和田が覚醒していったんじゃないかな......」

 和田と背尾の2枚看板。打線も井上と萩原を軸とした打線がうまく機能した。初戦を1−0の僅差で勝利し勢いに乗ると、初めて大阪を制した。

 近畿大会でも初戦で和田が報徳学園(兵庫)を完封。準決勝で天理(奈良)に0−1で惜敗したが、翌年春に開催されるセンバツ大会の出場を確実なものにした。

 そのセンバツ大会において、当時の高校野球専門誌での大阪桐蔭の評価は「A」。近畿大会で優勝した天理など、出場32校中「A」評価は6校のみだった。

「大阪で1位だったんでね。あの時から甲子園に行けるどころか、『全国制覇もできる』ってみんな思っていたはずです。だって、打つのも投げるもの異常やったんでね、ウチら」

 主将だった玉山雅一が当然と言わんばかりに語る。とはいえ、全国的にはまだ無名だった大阪桐蔭だが、主将の自信が過信ではないことに気づいたのが1991年3月28日。センバツ初出場の大阪桐蔭の力を目の当たりにした観客は度肝を抜かれ、甲子園は揺れた。

 狼煙(のろし)を上げたのは、萩原のバットだった。初回に先制タイムリーを放つと、4回にはバックスクリーン右に弾丸ライナーで放り込んだ。「自分でも手応えのある一発でした」と自画自賛するほどの完璧な一発もあり、仙台育英(宮城)を相手に4回までに10-0と圧倒した。

 だがこの試合の最大の衝撃は萩原を筆頭とした強力打線ではなく、エース・和田の快投だった。

 自身にとっても、チームにとっても初めての甲子園。それでも和田に緊張はなかったという。生命線であるストレートとスライダーが面白いように決まった。事前のミーティングで相手打線は強力だと聞いていたが、「普通に投げていれば抑えられる」と、淡々と腕を振った。

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