「もう無理かも」の弱気から甲子園出場へ。公立校・柴田が取り組んだ意識改革 (2ページ目)

  • 樫本ゆき●文 text by Yuki Kashimoto

 公立校を指導し続け、気づけば48歳になっていた。平塚監督は1972年、仙台市生まれ。仙台東では三塁手を務め、体育教師になるために仙台大学で野球を続ける。泉高、仙台向山での講師を経て、村田高で初めて野球部監督に就任。石巻高定時制では、全日制の監督を務めていた小原仁史氏(現・泉松陵監督で、2009年に利府の監督としてセンバツ4強)や、石巻地区のチームを強くした阿部輝昭氏(宮城水産監督から現・渡波小学校教諭)、菅野勇太郎氏(現・多賀城高教諭)に野球論を学ぶ機会に恵まれた。

 その後、河南(現・石巻北)に赴任し、慢性的な部員不足に悩みながら「子どもの個性を伸ばす指導」に没頭した。時には人数合わせで自分が練習試合に出場することも。「弱かったけど、楽しかった。しっかり練習させたし、本気で怒ったし、甘やかすことは絶対にしなかった」と懐かしむ。

 2010年4月に柴田の監督に就任。同校は利府とともに体育系の科を持つ県の「部活強化校」。素質のある選手に恵まれた。もう部員不足で悩むことはない――

 しかし、当時の柴田は低迷期。県の1回戦で負けるなど、創部当初(1988年)に東北大会4強に進んだような勢いはなくなっていた。再建を任された平塚監督は選手たちの意識改革に着手。そこで生きたのが、弱い公立校で培った「モチベーションアップ大作戦」だ。

「高校生たちは、指導者が決めたルールや厳しい練習には背きたくなるもの。それでこそ高校生なんです。一方で、『チームの雰囲気は大事にしたい』という気持ちも必ずある。具体的に言うと、彼らは仲間と決めたルールは守るし、自分で決めた練習は一生懸命やるんですよ。だったら生徒たちに決めさせたらいいんじゃないかと」

 受け身だった選手たちが主体的になり、柴田はすぐに勝ち出した。熊原健人(元楽天)が2年生だった2010年の春には、地区大会優勝、県大会で4強に進出。その後は安定して宮城の上位に勝ち進むようになった。2002年、2013年には夏の宮城大会決勝に進出。2015年には仙台大学に進んだ熊原が横浜DeNAベイスターズからドラフト2位指名を受けるなど、名実ともにチームは成長していく。

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