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46年ぶりセンバツ出場が幻に。
磐城高伝説の甲子園準優勝メンバーの胸中 (3ページ目)

  • 田口元義●文 text by Taguchi Genki
  • photo by Taguchi Genki

 宗像は例年、大会前後には母校の監督に、電話やメールで激励している。木村保監督にもセンバツ決定後には<おめでとう!>とメッセージを送り、大会中止を受けて<残念だったね>と慮った。

 自身も49年前にプレーした聖地。その大舞台で、鮮やかなコバルトブルーのユニフォームがプレーする。後輩たちの雄姿を見守れなかった悔しさ、無念さが襲う。

 宗像が負の感情を抑えながら、静かに語る。

「本当に厳しかったんだと思う。高野連の『望みがあるならやろう』という姿勢は、充分に伝わっていましたから。それでも、中止を選択せざるを得なかったんだから、僕はそれを受け入れるしかありません。自分に何かできるなら、やったんでしょうけどね......今は現場を退いた身で、あくまで大会はお手伝いする立場ですから」

 気持ちを切り替え、前を向こうとしても、やり切れなさはどうしても残る。

 立ちはだかる壁、抗えない社会情勢──宗像の野球人生を紐解けば、それらのキーワードが克明に浮かび上がってくる。

 高校時代に、いわき市の産業を象徴していた常磐炭鉱が閉山。福島県高野連理事長の任期中の2011年には、東日本大震災と福島第一原発事故に見舞われた。憂き目にあいながら現実と対峙し、立ち向かった経験が宗像にはある。今回の新型コロナウイルスの猛威は、いわば3度目の「強大な壁」だった。

 常磐炭鉱が閉山したのは、宗像が高校3年生になったばかりの1971年4月だった。

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