六本木のバーテンダーから甲子園へ。PL魂を受け継ぐ男の波乱万丈記 (3ページ目)

  • 井上幸太●文 text by Inoue Kota
  • photo by Inoue Kota

 小学1年生の時、球場で初めて見て、憧れを抱いた特別な存在。「行けると思っていなかった」はずが中学時代に勧誘を受け、二つ返事で進学を決めた母校のユニフォームを見たとき、全身に熱いものが駆け巡った。

「あらためてPLのユニフォームを目にした時、『これや!』と思いました。あれだけワクワクさせてくれて、自分を熱くしてくれるものは高校野球しかない。この時、もう一度高校野球に携わりたい、指導者になりたいと強く思いました」

 日大時代に教員免許を取得していなかったため、地元の大阪に戻り、太成学院大に編入。2年間大学に通い直した。

 そして、教育実習で母校に再訪。指導者という新たな夢を持って踏みしめたPL学園のグラウンドは格別だった。

 当時PL学園を率いていた藤原弘介(現・佐久長聖監督)から江の川(現・石見智翠館)の監督の末光章朗(あきろう)を紹介された。

「『来年、今のコーチが母校に帰る関係で指導者に空きが出る』という話を藤原監督から教えていただきました。いろいろな縁が重なって、末光監督に連絡をさせていただいたんです」

 当時、江の川のコーチを務めていた山木博之(現・鳥取城北監督)が母校である鳥取城北に戻ることが決まっており、ちょうど後任を探していた。谷本が高校3年の時、末光が教育実習で来校、指導を受けていた縁もあった。

 2008年、生まれて初めて島根に降り立ち、江の川のグラウンドを訪れた。

「ご無沙汰しております! 42期の谷本暁彦です!」

 あいさつのあと、末光から「日本一を目指して一緒にやっていこう」と言葉をかけられた。

 翌2009年、江の川から石見智翠館へと校名が変わるタイミングで赴任。2年間はコーチを務め、3年目の2011年から部長となった。

 部長として臨んだ最初の夏、チームは校名変更後初の島根大会決勝進出。「甲子園に行ける」と手ごたえを感じたが、対戦した開星に白根尚貴(元・DeNAほか、現・四国アイランドリーグplus・愛媛マンダリンパイレーツコーチ)の一発を含む3被弾。いきなり甲子園とはならなかった。

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