因縁の「箕面学園vs.履正社」は監督歴30年超の同年代対決! (2ページ目)

  • 谷上史朗●文 text by Tanigami Shiro

 田中は北陽のOBで、近畿大を経て、非常勤講師として箕面学園にやってきたのが1985年。当時は、ハンドボールコート2面ほどの小さなグラウンドしかなく、野球部のみならず、サッカー部、ハンドボール部、アメフト部と共用だった。当然ながら練習メニューは限られており、土日はすべて練習試合を組んだ。当時を田中が振り返る。

「僕が来た頃は、まともに投げられるピッチャーがひとりしかいなくて、練習試合の成績はたしか1勝49敗(笑)。そんなスタートでした」

 監督就任後もなかなか勝利を挙げることができず、夏の大会の初勝利は1990年。この時は2勝し、3回戦まで進んだ。

「でも翌年はまた初戦敗退で、相手は初芝(現・初芝立命館)でした。0対0から先制されて、9回表にスクイズと内野ゴロで逆転したんですが、その裏に2ランホームランを打たれてサヨナラ負けです」

 1992年も大阪学院に初戦で敗れたが、その翌年、5勝を挙げてベスト8進出を果たす。ちなみに、これが今でも箕面学園の夏の最高成績である。

「準々決勝の相手はPL。松井稼頭央(現・西武二軍監督)がエースの時で、わずか2安打に抑えられました。そのうち1本がホームランで、結果は1対4。悔しさはもちろんありましたけど、よくあの環境でここまで来たなと。奇跡的でしたね」

 それからしばらくして専用グラウンドが完成する。以前から、田中は、野球部の印象を少しでもよくするため、学校行事や式典の際には率先してゴミ拾いや雑用を行ない、当時の理事長、校長と顔を合わせるたびに「グラウンドをつくってください」と頼み続けていた。するとある時、理事長から「野球をやっているヤツはいいな」と声をかけられ、専用グラウンドの建設が決まった。

 いよいよ野球部の強化も本格的になるかと思われたが、好事魔多し。田中が生徒に手を上げたことが問題となり、半年間の謹慎となった。

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