無名大学が全国の強豪に激変。
ドラフト候補がもたらした意識改革 (2ページ目)
そんな杉尾には九州のみならず、名の知れた関東の大学からも声がかかった。だが杉尾が選んだのは、それまで全国大会に無縁だった宮崎産業経営大だった。「甲子園で初戦敗退し、宮崎県民のみなさんの期待を裏切ってしまった」という思いから、地元で日本一を目指すと覚悟を決めた。
1987年の創部以来、指揮を執る三輪正和監督は「ウチに来るなんてウソでしょう......と思いましたよ」と、当時を振り返って笑う。
練習する環境にも大きな制約があった。グラウンドは系列高校の鵬翔が優先的に使うため、練習は火曜と木曜の夕方と土曜の午前中だけ。選手の意識もそれほど高いものではなく、居残り練習に参加するのも、杉尾をはじめ数人しかいなかった。
そんなチームを変えようと、杉尾はミーティングで先輩にも積極的に進言した。耳を傾けてくれる部員もいたが、浮いた存在に感じてしまうこともあった。
だが3年となった昨年、主将に若松朋也が就任すると、杉尾の進言を取り入れ、7時半からの朝練習を導入。居残り練習する選手も格段に増え、限られた時間のなかで質の高い練習を行なうようになり、昨年、全日本大学野球選手権に初出場を果たした。
初出場ながら、全国大会4強10回の創価大、大学選手権最多出場を誇る福井工業大を続けて破り、全国8強入り。
そして今年の春も、杉尾が代表決定戦で3連投(うち2完投)とフル回転し、2年連続出場を決めると、開会式では主将を務める大幡が「日本一を目指します」と宣言するなど、選手の意識は格段に向上していた。
それだけに2回戦敗退は、昨年以上の悔しさがあった。4年生の多くは、教職課程の履修や公務員試験により秋を前に引退するため、三輪監督は「いいチームだったので、悔しさよりも(もうこのチームで戦えない)寂しさのほうが大きいですね」ともらした。
そして杉尾も、仲間たちにこう感謝の言葉を並べた。
「夜遅くまで野球について語り合い、『勝ちたい』『うまくなりたい』という気持ちは一番のチームでした」
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