無名捕手→甲子園8強投手へ。鶴田克樹は「育成からでも這い上がる」 (3ページ目)

  • 井上幸太●文 text by Inoue Kota
  • 大友良行●写真 photo by Ohtomo Yoshiyuki

 さらに「入学時から強く振る力はあった」と坂原が語る打力を武器に、2年夏に一塁のレギュラーを奪取。これに関して坂原は「以前の自分だったら使っていなかったと思う」とも振り返る。

「元来、ウチは守備と走塁のチームです。それもあって、以前は『打てるけど、守備に不安がある』選手をレギュラーで使うことはほとんどありませんでした。しかし、2015年夏の県大会決勝敗退を通じて、『打力のある選手を打線に置かないと甲子園には行けない』と痛感しました。そこで、本来は一塁の川上(顕寛)を三塁にコンバートして鶴田を一塁で使うことにしたんです」

 その目論見通り、準決勝では8回に1点差へと詰め寄るソロ本塁打を放ち、逆転劇への口火を切った。投手としては「組み合わせが決まった時点で、先発させると決めていた」という準々決勝で、前年の優勝校である高川学園を2安打完封。下関国際にとって創部史上初めての甲子園出場に大きく貢献した。

 この投打に渡るブレイクを通じて、「鶴田を軸に100回目の夏を目指す」と坂原の構想は固まった。

 2年秋の中国大会決勝でおかやま山陽(岡山)相手に最大9点差を追いつかれながらも、試合終盤まで鶴田にマウンドを任せたのも、エースとしての自覚を促すためだった。

 2季連続出場となった3年春のセンバツでは、直球が自己最速となる145キロを計測したものの、初戦で創成館(長崎)に1-3で敗退。夏の山口大会連覇、3季連続の甲子園がかかる勝負の夏に向けて、坂原は鶴田にある提案をした。

「センバツが終わった後に『寮に入らないか』と提案しました。秋の中国大会で負けた後からは週の何回かを寮で過ごしていましたが、より自覚を得る、練習に集中するために完全に入寮したほうがいいと思っていたんです」

 それまで鶴田は、北九州の実家から電車で通学していた。中国大会直後に入寮を薦めた際は、あまり乗り気ではなかったが、センバツ後は「わかりました。入寮させてください」と、即決した。

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