【連載】荒木大輔がいた甲子園。証言で明かす1980年の高校野球 (4ページ目)

  • 元永知宏●取材・文 text by Motonaga Tomohiro
  • photo by Okazawa Katsuro/AFLO

 その2年間、日本中の高校球児が「甲子園のアイドル」を倒すことを目指した。

 荒木の1学年上で、報徳学園(兵庫)のエースで四番だった金村義明は、「ジェラシーの塊だった」と、当時を振り返っている。また、1982年の夏に荒木から17安打を放ち、14-2で早稲田実業に引導を渡した池田(徳島)のエース・畠山準は、「早稲田実業に勝った後、カミソリ入りの手紙がどれだけ届いたか」と嘆いた。

 球児として「大ちゃんフィーバー」を経験した人たちは、その凄まじさについてこう口を揃える。

「2006年のハンカチ王子(斎藤祐樹)なんか、比べものにならないくらいすごかった」

 荒木の姿をひと目見ようと、女子高生や女性ファンが集まるのは、早稲田実業のグラウンドや試合が行なわれる球場だけではなかった。今からすれば信じられないほど個人情報の扱いが緩かった時代に、「甲子園のアイドル」の気が休まる時間はなかっただろう。

「リラックスできたのは、校内とグラウンドの中だけだった」と本人は語っているが、荒木はメディアにどれだけ注目されても、黄色い声に囲まれても、最後まで冷静さを失うことも浮かれることもなかった。大会ごとに加熱する報道をよそに、静かにピッチングを磨き続けた。

 甲子園に5回も出場しながら、一度も頂点に立てなかった荒木大輔。

 12勝を挙げながら、5度の敗北を味わった「甲子園のアイドル」。

 誰よりも甲子園に愛されながら、最後まで甲子園に嫌われた男がいた2年4カ月はどういうものだったのだろうか。

 荒木と同じ中学に通っていた宮下昌己(日大三→中日ドラゴンズ)、早稲田実業のチームメイト・石井丈裕(元西武ライオンズ)、東東京地区でしのぎを削った二松學舎大附属のエース・市原勝人(現二松學舎大附属野球部監督)をはじめ、甲子園で戦った愛甲猛(横浜→ロッテオリオンズ)、金村義明(報徳学園→近鉄バファローズ)、畠山準(池田→南海ホークス)など、彼と同じ時間を過ごした球児や関係者の証言をもとに、「荒木大輔の時代」に迫っていく。

(つづく)

(=敬称略)

◆4タコ&初戦敗退で甲子園を去る「未来の怪物スラッガー」が残した言葉>>

◆センバツ初出場の府立・乙訓高校の選手が「強豪校にビビらない」暗示>>

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