【自転車】Jプロツアー個人首位・畑中勇介が語る「TeamUKYO」 (4ページ目)

  • 西村章●構成・文・写真 text & photo by Nishimura Akira

「ホセは、スペインではプロコンチネンタルに所属していたほどの実力の持ち主で、しかも去年までTeamUKYOに在籍していたので、日本のレースの戦い方やテクニックもよく知っている選手です。彼を抑えて僕がランキングで首位を保てているのは、TeamUKYO全員の力と経験によるところが大きいし、シーズン全体を見据えた戦略的にもかなり良い状態だと思います」

 2015年シーズンが開幕する前にチームの司令塔である土井雪広は、UCIレースは土井を中心に組み立てて、Jプロツアーでは畑中をエースに据える体制にしたい、と話していた。土井と畑中との間では、特に綿密な戦略の相談こそしていなかったようだが、互いに経験の豊富な者同士で、阿吽(あうん)の呼吸にも似た相互理解はできていたようだ。

ツアーオブジャパンや全日本選手権を狙っていくと、そこに合わせたコンディションのピーキングを大きく作らなきゃいけなくなってくるんです。そうすると当然、落ちるところも出てくるんですね。一番実力のある土井選手がそこを狙いに行くとすれば、Jプロツアーや年間全体を通した緩やかなピーキングの維持が、かなり厳しくなる。だからそこは、チーム内でセカンドエースの立場にいる僕が狙っていかなきゃいけないな……ということは、言葉にしなくても感じていましたね」

 開幕から数ヶ月が経過した今でこそ、畑中が黒地のTeamUKYOジャージを着用する姿は皆の目にも馴染んだが、昨シーズン終了後に彼がシマノレーシングから移籍するという情報が流れたときは、若干の驚きをもって伝えられた感もあった。

 畑中自身は、この移籍の理由を、「まだ先生にはなりたくなかったから」だと説明する。

(次回に続く)

著者プロフィール

  • 片山右京

    片山右京 (かたやま・うきょう)

    1963年5月29日生まれ、神奈川県相模原市出身。1983年にFJ1600シリーズでレースデビューを果たし、1985年には全日本F3にステップアップ。1991年に全日本F3000シリーズチャンピオンとなる。その実績が認められて1992年、ラルースチームから日本人3人目のF1レギュラードライバーとして参戦。1993年にはティレルに移籍し、1994年の開幕戦ブラジルGPで5位に入賞して初ポイントを獲得。F1では1997年まで活動し、その後、ル・マン24時間耐久レースなどに参戦。一方、登山は幼いころから勤しんでおり、F1引退後はライフワークとして活動。キリマンジャロなど世界の名だたる山を登頂している。自転車はロードレースの選手として参加し始め、現在は自身の運営する「TeamUKYO」でチーム監督を務めている。

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