日本一になった元京大アメフト部・水野監督の言葉「吉田山に登れ」は、「起業」の後押しにもなる (3ページ目)

  • 鈴木雅光●構成 text by Suzuki Masamitsu
  • はまのゆか●絵 illustration by Hamano Yuka

【ライスボウルでの勝利を目指して】

奥野「水野さんは1965年に京都大学のアメフト部のコーチに就任した後、コロラド鉱山大学に留学して1973年に帰国し、1974年から京大ギャングスターズの監督になった。

 当時、関西のアメフトリーグは関西学院大学が圧倒的に強くて、京都大学は2位になることはあっても、関西学院大学には勝てなかった。それが徐々に関西学院大学との実力差を詰められたのは、まずは猛練習だよね。何しろ京都大学に入る学生なんて、高校生の頃は勉強ばかりだから、ハードなスポーツを経験している人なんてほとんどいない。しかも大学に入学できて、晴れて自由の身になれたと思ったのに、練習漬けのアメフト部に入りたいなんて考える学生もほとんどいなかったはずなんだ。

 常識的に考えれば、そんな学生ばかりの京都大学で、チームを日本一に導けるような屈強な学生がいるはずもなく、だからスカウトと選手育成の大変さは、想像を絶するものがあるよね。

 でも、水野さんはそれを成功させたんだ。

 アメフトって格闘技みたいなものだから、とにかくガタイがよくなければダメ。だから、新入生で体格のいい人間がいたら、とにかく声をかける。それとともに、練習に出てきた1年生に、とにかくアメフトというスポーツの面白さを伝えなければならないから、1年生のうちからボールを触らせる。そして4年生がボール磨きをするんだ。

 しかもアメフト部の学生で、4年生で卒業できる人はほとんどいなくて、だいたいは4年生で1留、2留をすることになる。

 こうして、大学在学中はほとんど勉強せずに、アメフトに大学生活の全てを注ぎ込み、学生日本一を決める甲子園ボールと、そこでの勝者が社会人日本一のアメフトチームと直接対決するライスボウルでの勝利を目指したんだ」

鈴木「めちゃくちゃハードな学生生活のように思えるんですけど、それで学生、集まったんですか」
由紀「それに1年も2年も留年したら、就職ですごく不利になっちゃうような......」

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