【指揮官と箱根駅伝】「やっぱり優勝監督になりたい」創価大・榎木和貴監督が語る中央大4年時の悔しさと指導者として再燃した駅伝への思い (2ページ目)
【強風を利した4回目の区間賞と卒業後の苦闘】
迎えた1月2日、第73回箱根駅伝の往路は強風が選手たちを苦しめた。
「前年度と比べると、たぶん各区間で3、4分は遅かった。私も、前年度からは4分遅かったですね」
この年の榎木のタイムは1時間06分03秒。前年は1時間02分15秒だったのだから、榎木が言うように、タイムは4分近く遅かった。
だが、榎木は、この強風をポジティブに捉えていた。
「みんなペースを上げきれないなか、4年連続の区間賞がかかっていたので、僕の前にはテレビの中継車が来たんです。中継車が前にいると風よけにもなる。約40秒前に大東大と早大がいたので、とりあえずその2校に追いつくまでは全力でいこうと思い、中継車を利用しながら攻めの走りをしました」
5位でタスキを受けた榎木は、早大、大東大、山梨学院大に追いつき、2位集団を形成した。
「貧血の影響もあってラストスパートで置いていかれた」と振り返るように、スパート合戦では遅れをとったが、上位争いを繰り広げた。そして、4年連続の区間賞を獲得し、史上7人目(当時)の快挙を成し遂げた。
しかしながら、チームは復路で苦戦し、総合4位に終わり、目標に掲げていた連覇を逃した。
「4年連続で区間賞を獲ったことには達成感があったんですけど、チームが4位に終わったので、まったく喜べなかった。やっぱり駅伝が好きだったので、箱根で1回は優勝しているんですけど、4年目にチーム目標を達成できなかったことは、ずっと悔しく思っていました」
4年連続区間賞という金字塔を打ち立てながらも、最後の箱根駅伝で味わった悔しさはあまりにも大きかった。
だが、実業団の強豪・旭化成に進むと、「だんだん悔しさが薄れていった」と言う。
「学生まではチームの柱として必要とされてきた存在だったのですが、実業団に行ったら、そもそも駅伝のメンバーに入れない。もちろんニューイヤー駅伝を走りたいという思いはあったのですが、駅伝に対するモチベーションがあまり持てなくなっていきました」
マラソンでは2000年の別府大分毎日マラソンで優勝を飾っているが、駅伝ではなかなか出番がなかった。現役競技者としての最後の1年はトヨタ紡織に移籍し、プレイングコーチとして上州路を目指したが、最後の最後でメンバー落ち。結局、ニューイヤー駅伝を一度も走ることなく、第一線を退いた。
その後は指導者の道に進み、トヨタ紡織の監督としてニューイヤー駅伝で7位の成績を残した。しかし、「自分の指導に限界を感じたというか、これ以上何をやればいいのかが見えなくなっていた」と言い、志半ばに監督を退任した。
退任後は社業に就いたが、その後は宮崎に戻り、兄の事業を手伝いながら、いったんは競技レベルから距離を置く意味でものんびり過ごそうと考えていた。
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