日本記録を19年保持した野口みずきから現役選手へのエール「命を燃やしてマラソンに打ち込んでほしい」 (2ページ目)
【2大会連続金メダルへのプレッシャー】
だが、ここから五輪までの間、野口は2大会連続の金メダルという期待とプレッシャーに苛(さいな)まれるようになる。
「ディフェンディングチャンピオンというのを意識しすぎてしまっていて......。表向きには全然気にせず、今までどおりの私という感じで強気な姿勢でいたんですけど、本当の私は密着のカメラから顔を背けたりしてすごく神経質になり、これもあれもやらなきゃいけない、どうしようっていう不安でいっぱいでした」
周囲の期待に応えたいという責任感から、もっと練習をやらないと金メダルは取れないと思い、自分を追い込んでいった。そんな北京五輪の直前、スイスのサンモリッツでの合宿で総仕上げ的な練習をしている時だった。朝、左太ももに違和感を覚えた。だが、「今日、山場を越えないといけない」という意識になっていたので、監督やコーチには言わず、そのまま練習に出た。
1周5.3kmの周回コースで、廣瀬永和コーチが自転車で後ろについてくれた。走っていると痛みのある部分が固くなり、悪化しているのを感じたが、そのままペースを上げた瞬間、猛烈な痛みが左もも裏に生じ、足を止めた。痛みを聞いた廣瀬コーチはスタート地点にいる藤田監督に伝えるため、すっ飛んでいった。
「しばらくして廣瀬コーチが戻ってきた時は、無表情で黒いサングラスをかけ、『ターミネーター』の音楽が流れているような雰囲気でした。オリンピックとか世界陸上前の合宿って、監督やコーチは朝起きて選手がここが痛いとか、ここが気になるというのが本当に怖いと言っていたのですが、私がそうなってしまって......。ここまで来て、こんなことになり、申し訳ない気持ちでいっぱいでした」
数日間は歩くことしかできず、それでも北京五輪に出たいので、痛みを我慢してジョグをした。その結果、ケガは悪化し、帰国して病院に行った。北京五輪は難しいという診断が下され、本番の5日前、野口は北京五輪欠場を決めた。
「すごく悩みました。応援してくれた人たちの顔が頭に浮かんだり、補欠の選手たちに申し訳ないと思い、やっぱり私はオリンピックに出ないといけないんじゃないかって思いました。欠場を公表してからは、誹謗中傷の声が届きましたし、寮の周りにもマスコミが来て、見張られているような感じでした。ただ、いろいろ批判はされましたけど、応援してくれる人の数も多かったので、それが私には救いになりました」
北京五輪は、野口が欠場し、土佐礼子(三井住友海上)も途中棄権。高橋尚子から続いた日本の連続金メダル獲得は2大会で途絶えた。
「北京五輪のマラソンは、普通に練習ができていたら勝っていたんじゃないかなとか、そんなことをぼんやり思いながらテレビで見ていました。でも、レースに出ていたらきっと途中棄権していたでしょうし、欠場は正解だったのだろうと思いました」
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