野口みずき、アテネ五輪前の月間走行距離は驚異の1370km「丈夫な体に産んでくれた両親に感謝です」 (2ページ目)
【満を持して迎えた待望の初マラソン】
ロードで才能を開花させ、「ハーフの女王」と称された野口は、2000年7月、札幌国際ハーフで、日本女子マラソンのエースだった高橋尚子(積水化学)と初めて対決。結果は、シドニー五輪(同年9月)に向けた調整の一環として出場した高橋が優勝し、野口は3位だった。
「(高橋さんは)最初は憧れというか雲の上のような存在でした。レースの時も速くて、やっぱりそうだよな、強いなって叩きのめされたんです。でも、シドニー五輪での金メダルを見て、私も高橋さんに近づきたい、オリンピックの歓声をひとり占めしたいと思うようになったんです」
ハーフで1時間08分台を出すなど安定して走れており、そのまま積み重ねていけば、マラソンでもいいタイムが出るのではないかと野口自身も周囲も期待した。
当初は、2001年8月の世界陸上エドモントン大会出場を目指し、その代表選考レースである前年の大阪国際女子マラソン(1月)か名古屋国際女子マラソン(3月)で初マラソンを走る予定だったが、故障のため出場を見送った。
マラソンでなくても世界陸上には出たいと考えた野口は、2001年の日本選手権(6月)・10000mにエントリーすると、大雨のなか、藤田監督も驚く3位に入り、代表に選出。本大会では13位に終わったが、マラソンに出場した土佐礼子や渋井陽子(ともに三井住友海上)の走りを見て、「マラソンにチャレンジしたい」思いをさらに強くした。
迎えた待望の初マラソンは、2002年3月の名古屋国際女子マラソン。野口は事前に中国の昆明などで合宿を行ない、満を持してレースに臨むと、25km過ぎからロングスパートを決め、2時間25分35秒で優勝を飾った。
「優勝はしたけど、記録的にはちょっと微妙でほろ苦い初マラソンでした。レース展開は20kmまではエンジンがかかっていない感じで、25kmを越えてくるとラクになるというか、ペースが上がる感じでした。"30kmの壁"も感じず、後半になればなるほどリズムがよくなったので、これが私のマラソンのレース運びになっていきました」
マラソン2戦目となった翌2003年1月の大阪国際女子は2時間21分18秒の好タイムで優勝。同年8月の世界陸上パリ大会への出場が決まった。その世界陸上は、アテネ五輪の日本代表選考レースでもあり、日本人トップかつメダル獲得なら代表内定だった。
「それ(アテネ五輪代表の内定)は逃すまいと思っていました」
野口はアテネ五輪のマラソン代表の座を獲得するため、万全の準備をした。
「以前に一緒に走った海外の選手、特にケニアとかエチオピアの選手たちの腰高で滑らかなストライドで走る姿が頭の中にあって、私もあんな感じで走りたいと練習では常に彼女たちの走りをイメージして走っていたんですが、(初マラソンの)名古屋で優勝できて、それを上回るペースで走ろうと挑んだ大阪国際でもびっくりするタイムで優勝できました。
次はパリ(世界陸上)なので、標高の高いスイスのサンモリッツで合宿を行なったのですが、そこでは大阪国際の前に合宿を行なった昆明での練習のタイムを上回ろう、つねにベストを出そう、以前の私を超えようというのをテーマに練習していました」
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