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箱根駅伝 総合4位と健闘した早稲田大・花田勝彦監督が明かす「3強崩し」の戦略 「往路は想定した順位のなかで一番いい位置で終えられた」 (3ページ目)

  • 佐藤俊●取材・文 text by Sato Shun

【「山の名探偵」はマラソンも準備中】

――5区は監督が名付けたという「山の名探偵」こと工藤慎作選手(2年)。

「レースの5日前に少し疲労が出て、身体が重いと言ってきたので、前回もサポートしてくれた相良(豊)前監督に連絡をして当日のサポートをお願いしたんです。動きを見てもらったりするなか、スタート時には『落ち着いているので大丈夫です』という連絡をもらったので、心配はしていなかったです。実際、走り始めると冷静に最短距離のコース取りをしていましたし、声掛けてしても反応が良かったので、これなら行けるなと思っていました」

――いつ頃から山に特化した練習をしていたのですか。

「前回の箱根(5区6位、1時間1212秒)後、『次の箱根は1時間10分を切りたいよね』という話をしましたが、本格的に5区の練習に取り組んだのは夏合宿からです。アップダウンのあるコースを走り、紋別合宿では20㎞を走った後、さらに追加で10㎞上るという練習をしました。これは距離に対応することも意識したものです。彼はロサンゼルス五輪でマラソン日本代表になりたいと思っていて、そのために(昨年7月には)ゴールドコーストマラソンで25㎞までのペースメーカーを務めたりもして、マラソンに向けての準備を進めているんですよ。それが山にもうまくリンクできているのかなと思いますね」

――かなりの自信を持って5区に送り出した感じですね。

「そうですね。31秒差で前を行く國學院大には追いつけると思っていました。ただ、駒澤大(37秒差)は山川拓馬君(3年)だったので、かなり強い選手ですし、追いつくのはちょっと難しいかなと思っていました。でも、途中から背中が見えてきたので、工藤にとっては非常に走りやすかったと思います。若林宏樹君(青山学院大・4年)に次ぐ区間2位、チームを3位に押し上げてくれた走りは、本当にすばらしかった。工藤はゴールした後もピンピンしていて、5区を走った選手の中で一番元気でしたね(笑)」

――往路を終えて3位、トップの青山学院大とは2分29秒差でした。あらためて往路の展開を振り返ってください。

「想定した順位の中では一番いい位置(3位)で往路を終えることができました。『3強を崩す』と言っていましたが、それは相手に誤算があり、なおかつウチがきっちりと走ることで初めて可能になることだと思っていたので、まさか実力で崩せるとは思っていなかったですね。ただ、3位になったとはいえ、これからさらに攻めていこうという感じではなく、復路もチームとしてそれぞれがきっちりと走っていこうという確認をしました。だから、チームも復路の選手も浮かれている感じはまったくなかったですね」

――復路のプランは、どのように考えていたのですか。

「最初は、とにかく4位との差をしっかり維持していければいいかなと。そのくらいしか考えていなかったですね。ただ、今思えば想定内の一番いい位置で来たので、優勝というところも考え、それを選手に意識づけしていければ、もう少し攻めの走りができたのかもしれません」

>>後編(「3強崩し」ならずも、早稲田大・花田勝彦監督がつかんだ確かな手応え「瀬古さんにも『山がいるうちに勝たないとな』と言われました(笑)」)に続く

Profile

花田勝彦/はなだかつひこ

1971年生まれ、滋賀県出身。彦根東高校を経て早稲田大学へ入学。3年時には箱根駅伝で総合優勝、4区区間賞(区間新)。1994年にエスビー食品陸上部へ進み、1996年アトランタ五輪で10000m1997年アテネ世界陸上でマラソン、2000年シドニー五輪で5000m10000m日本代表。2004年に引退後は上武大学駅伝部の監督に就任、同大学を2008年箱根駅伝初出場に導き、以来8年連続で本選出場。2016GMOインターネットグループ陸上部監督に就任。20226月より早稲田大学競走部駅伝監督に就任。

著者プロフィール

  • 佐藤 俊

    佐藤 俊 (さとう・しゅん)

    1963年北海道生まれ。青山学院大学経営学部卒業後、出版社を経て1993年にフリーランスに転向。現在は陸上(駅伝)、サッカー、卓球などさまざまなスポーツや、伝統芸能など幅広い分野を取材し、雑誌、WEB、新聞などに寄稿している。「宮本恒靖 学ぶ人」(文藝春秋)、「箱根0区を駆ける者たち」(幻冬舎)、「箱根奪取」(集英社)など著書多数。

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